2006年03月03日

盛岡・仙北町界わい 岩手川のお湯に行列

昔はもっと高かった岩手川の煙突

 昭和30年代、商店街には生活に必要なものがすべて揃っていた。風邪で家族が熱を出せば氷屋に走り、家には風呂がないかわりに銭湯が地域住民のコミュニケーションの場となった。浜藤酒造(現在の岩手川)の石炭ボイラーから提供される無料のお湯にはバケツを手にした近所の人たちが列をなした。そのお湯は食器を洗ったり、洗濯などに使われたが、なかには天秤棒におけをさげてお風呂のお湯にした人もいた。たちのぼる湯気を合図に駆けつけた人たちで、路地の一角のお湯くみ場は大にぎわいだったという。
 そのお湯の正体だが、ボイラーをたく時に内部にできる炭酸カルシウム(石灰)の結晶を洗い流すために使ったもので、酒造りの職人さんたちのお風呂用に再利用されたほか、お湯くみ場を通して近所の人たちにも提供された。
 岩手川第一工場でひときわ目立つ高い塔屋は、昭和30年に建設された焼酎の甲類を製造するための施設で、内部にはアロスパス式連続蒸留機が設置されている。この塔に寄り添うようにそびえる煙突は、清酒の瓶の洗浄や殺菌などに使うお湯をわかした石炭ボイラーのもの。昔はもっと高かったが、昭和39年6月16日の新潟地震の後、安全上の利用から現在の高さになった。

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地域の住民に喜ばれた岩手川のお湯くみ場。第1工場は高いブロック塀に囲まれており、塀の外側、路地の一角でお湯をもらうことができた
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岩手川のシンボルである石炭ボイラーの煙突。6階建てビルぐらいの高さがあり、周囲に高い建物がないのでよく目立つ

大きな工場がまちを潤し、活気づけた

 大正5(1916)年の仙北町駅設置で活気づいたまちに、さらににぎわいをもたらしたのが同駅周辺への大規模な工場進出である。昭和12(1937)年、岩手県の主唱により県下主要会社などが出資して設立した岩手鉄工所(後の北日本機械)が同駅南側で産声をあげるとともに、翌13年には同駅西隣に東北振興繊維(後の東北毛織盛岡工場)が創業。北日本機械は鋼製橋梁、水門の設計、製造、架設などの業務に200人ほどの従業員が従事し、東北毛織も女性を中心に約400人などが働くなど、雇用の場の提供など地域経済の活性化に大きな貢献を果たし、まちを大いに潤した。
 しかし東北毛織は36年、工場の閉鎖に追い込まれ、地元の女性など多くの人が職を失った。北日本機械は52年、玉山村の盛岡工業団地に全面移転を遂げている。東北毛織の跡地には自動車工場の誘致が計画されたが、残念ながら実現しなかった。市営西仙北アパートの東隣に広がるグラウンドが東北毛織盛岡工場跡地であることを知る人も少なくなった。一方、北日本機械跡地には、昭和55年に仙北地区活動センターなどがオープンした。
 この東北手織盛岡工場跡地には、マイヤ(本社大船渡市)の食品スーパーを核に、ドラッグストアのマツモトキヨシ、100円ショップ、フィットネスクラブなどを配置した仙北ショッピングモール(仮称)が今秋の開店を目指している。

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マイヤを核としたショッピングモールが建設される東北毛織盛岡工場跡地

盛岡バイパスと堤防工事が変えたまちの景観

 仙北町界わいの景観に大きな変化をもたらしたのが、昭和30年代から40年代に行われた国道4号盛岡バイパスと北上川堤防の工事である。盛岡バイパスの工事は、昭和34年度から用地買収を行い、39年度に南大橋の工事に着手。41年12月、盛岡バイパスの起点である川久保から国道106号との交差点の区間2800mが開通した。
 一方、昭和23年9月のアイオン台風の洪水被害などを教訓とする北上川の堤防建設は、左岸の仙北地区が34年から10年かがりで行われ、44年に延長3178mの堤防が完成。巨費を投じて造られた堤防は住民に大きな安心をもたらしたが、同時に堤防の工事で失われたものも少なくなかった。
 そのひとつが、大正時代に南大橋付近の川原一帯を整備して造られた吉万公園だ。その名前の由来は、川原町の大店「吉万」の土地だったことに由来する。当時を知る人は「低い松林や池、藤棚などがあり、岩手山や北上川の風景とあいまって、それは見事な景色でした。八重桜もきれいでしたね。仙北町でお花見といえば、吉万公園と決まってました」と話す。現在、当時をしのぶかのように、南大橋付近ではベンチ、植栽、多目的グラウンドなど公園整備が進み、かつての吉万公園の名を刻んだ石碑も復活している。
 また明治橋のたもとには、盛岡市消防第一分団(は組)の本格的な火の見櫓を持つ番屋もあったが、堤防の建設に伴って移転。明治橋から下流へと続いた石組の風流な土手も姿を消した。

多くの恵みをもたらした水のある風景

 かつての仙北町界わいは、湧き水と大小の沼がある水のまちでもあった。暴れ川として知られる雫石川はいくたびも川筋を変え洪水などにより人々を苦しめてきた。仙北町界わいが雫石川の川筋であったこともあるという。かつて雫石川が流れていたことをうかがわせるのが小中島(現在の仙北三丁目)の地名だ。小中島ではいまでも、庭を深く掘ると水が湧き出てくるという話である。
 大小の沼は、東北本線に沿って北からえび沼、長五郎沼、ふくべ沼、五合田沼の順にあったが、すべて埋め立てられ、跡形もなくなってしまった。そのうちで最大のものが、現在のいわて生協コープ仙北店付近にあった長五郎沼。雫石川の上流部を取水口とし盛岡市太田、飯岡や紫波郡の水田を潤している鹿妻穴堰の水が豊富な流れ込み、子どもたちの格好のつり場となっていた。また当時は学校にプールがない時代で、この沼で元気に泳ぎまわる子どもたちをよく見ることができた。
 水のある風景は、仙北小学校付近を流れていた農業用水路や青物町などにあった湧き水、井戸など町内の至る所にあった。仙北町商店街の仙北小学校入口のT字路交差点にはかつて鹿妻堰をまたぐ万年橋という石橋があり、昭和30年代までまちの風景に溶け込んでいた。

姿を消すものと復活を遂げるもの

 時代の移り変わりととともに、まちから姿を消していったものは数多い。大正4年の仙北町駅開業と同時に設置された駅前交番は昭和42年、盛岡バイパスの開業に伴って川久保に移転。南町(現在の仙北三丁目)にあった青物市場は、朝市として戦後から昭和40年代にかけて人気を集めていたが、いまはない。昭和25年に開設された南町児童遊園地は子どもの遊びとしてはもとより、地域の運動会や夏祭りの会場として活躍したが、惜しまれながら55年に閉鎖され、その跡地には盛岡南消防署仙北出張所が建っている。
 姿を消すものが多いなかで、舟っこ流しの伝統は関係者の努力もあってしっかりと守られきた。そして平成12年には、盛岡城下火消「は組」の伝統を受け継ぐ盛岡市消防第一分団による裸参りが60年ぶりに復活。川久保にある一里塚の碑も地元有志の働きかけが実り、市によって新たなものに整備されている。

(岩手日報ぽらんに連載した原稿に一部加筆しました)

2005年11月05日

松園、小鳥沢界わい

 松園ニュータウンは、最初の120世帯が入居し新しい市街地として産声を上げてから30数年が経過。雑木林や採草地が広がる原野には、その後サンタウン松園、小鳥沢ニュータウンの造成が続き、いまでは北東北最大の人口規模を誇る大団地として大きく発展を遂げている。

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紅葉の北松園

東北最大規模の住宅団地として誕生

 盛岡市の人口増加と住宅難に対応するため、県住宅供給公社は昭和44(1969)年、東北最大規模の住宅団地「松園ニュータウン」の開発を計画。市中心部から北へ約7キロの東黒石野、小鳥沢にまたがる山林118ヘクタールを対象に翌45年から造成を開始した。当時のマイホームブームに乗って順調に分譲が進むなか、47年7月には最初の120世帯が入居し、55年には第1期工事が完了、戸数4千戸、人口1万人の新しい市街地が誕生した。松園の名は、県木のナンブアカマツにちなんで命名されたものだ。
 その後県住宅供給公社は、同ニュータウン北隣の小鳥沢の山林83ヘクタールを取得し、61年からサンタウン松園の造成を開始。またサンタウン松園の北側では、民間大手業者が40ヘクタールを対象に小鳥沢ニュータウンの開発を計画し、58年造成に着手した。
 現在、松園、小鳥沢地区では、松園4044世帯、サンタウン松園1389世帯、小鳥沢ニュータウン855世帯の合計6288世帯、1万8360人が暮らしている。
 松園に最初の家族が入居した昭和47年当時は、公共施設や店舗、病院など生活関連施設が乏しいうえに交通の便が悪く、日常生活にも不便をきたす陸の孤島のような状態だった。しかし今日、恵まれた自然環境に加えて、道路、公園、学校など公共施設や大型スーパー、病院などの施設も充実し、目を見張るばかりの発展を遂げている。

緑豊かな四十四田ダム周辺

 四十四田ダムは、北上川治水五大ダムの一つとして計画され、37年の着工から6年の歳月をかけて43年に完成した。洪水調整のほか、田畑のかんがい、発電のための多目的ダムで、県庁所在地に築かれた全国でも珍しいダムである。毎年7月に行われる北上川ゴムボート川下り大会は、ここをスタート地点に行われる。
 同ダムの完成以降、周辺では大規模な開発が行われていないことから、水辺や森など貴重な里山の自然が残っており、多種多彩な動植物が棲息する自然の楽園となっている。多くの住民が暮らす大団地が近くにあるとは信じられないほどだ。 
 江戸から松前(北海道)に向かう奥州街道が通っていた松園、小鳥沢。ダムの完成によってできた湖は、岩手山の美しい山容を映すことから南部片富士湖と呼ばれるが、この湖の下をかつて同街道が通っていたことを知る人は多くない。ダム湖畔の東側を通る村道黒石野門前寺線には、人や物資の往来でにぎわった奥州街道の歴史を物語る貴重な小野松一里塚(県指定文化財)が残る。
 奥州街道として歴史を刻んだ同村道は、カーブが多く砂利道だったが、県は平成八年から拡幅改良工事を進め、これまでに観音橋の完成などにより道路状況が大幅に改善された。現在工事中の小野橋も近く完成することから、同村道は松園と玉山村を結ぶ重要ルートとして交通量がいっきに増加しそうだ。観音橋や小野松橋の名前は、近くにある小野松一里塚と小野松観音にちなんで名付けられたもので、当時の街道のにぎわいをそっと語りかけてくれる。

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高台の公園から見た四十四田ダムと岩手山

都会のオアシス、市営小鹿牧場

 四十四田ダム周辺には、県制百周年を記念して55年に県立博物館が開館。地質時代から現代にいたる地質、考古、歴史、民俗、生物などの資料が多数展示され、岩手県の自然と文化を知ることができる。またダムのほとりには盛岡ドミニカン修道院があり、院内では祈りや思索、労働をしながら生涯を神に捧げた修道女たちが静かに暮らしている。 
 四十四田ダムを遠くに見下ろす高台には、市営小鹿牧場がある。牧場の名前は、かつて所有者だった二人の実業家の頭文字からとったものだ。一人は明治、大正時代に活躍した盛岡市の銀行家小野慶蔵氏、もう一人は鹿島建設を業界トップに押し上げた鹿島守之助氏。42年に盛岡市に寄贈された。23ヘクタールの広大な敷地を有し、現在は一部が小鹿公園として市民に開放されている。周囲をめぐる散策路や岩手山などを望む展望台が整備されており、野鳥が羽を休める豊かな自然のやすらぎを求めて訪れる市民が絶えない。大団地に隣り合う別世界の自然は大きな魅力である。

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盛岡ドミニカン修道院

2005年10月07日

大慈寺、惣門、新馬町界わい

城下町の風情が漂うまち

 数々の名刹が並び寺町として親しまれてきた大慈寺町、盛岡城下にあって物資交易の要所として栄えた惣門付近、馬検場や旧盛岡劇場があった新馬町(現松尾町)。城下町としての風情を残し、歴史の重みが息吹く町並からは、豊かな歴史と文化に彩られた潤いと落ち着きが感じられる。

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下町の風情を残す寺の下
 
物資交易の中心として活気、惣門付近
 
 藩政時代、城下町盛岡の南の玄関口として活気を呈した惣門界わい(現在の南大通二丁目、三丁目)。北上川船運の起点である新山河岸に近く、また奥州、釜石、宮古街道などが通る交通の要だったことから、この要所を警護するために「惣門」が建てられ、一日二回の時鐘とともに門が開閉されたという。南大通二丁目の木津屋本店の近くの道には「盛岡城整備惣門遺址」の石碑が残り、当時の様子を伝えている。
 また惣門付近一帯は、物資交易の中心地として、糸屋、木津屋など数多くの豪商が軒を連ね、盛岡城下の中で最もにぎわいを見せていた。江戸時代の町屋の面影を残す糸屋(中村家住宅)の建物は、貴重な歴史的建造物として国の重要文化財に指定されており、市内愛宕町の盛岡中央公民館の敷地内で大切に保存されている。
 南大通三丁目の円光寺は、盛岡市出身で戦前、海軍大将、首相などを務めた米内光政の墓があることで知られる。閑静な境内のなかには、市指定天然記念物に指定されている樹齢300年の夫婦桂が参拝者を静かに見守っている。
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盛岡城整備惣門遺址の石碑と惣門付近

名刹が並ぶ寺町・大慈寺界わい

 鉈屋町から大慈寺に通じる通りは「寺の下」と呼ばれ、平民宰相として活躍した原敬の墓所のある大慈寺や祇陀寺をはじめ、周辺には永泉寺、久昌寺、長松院、千手院、臨江庵など数々の名刹が並び、藩政時代から続く歴史ある寺町として市民に親しまれてきた。
 大慈寺は、南部藩主の姫君が帰依した由緒と格式ある寺だったが、明治17(1884)年の大火で類焼し全焼。その後、原敬の援助によって同38年、宇治の万福寺を模した楼門形式の山門や本堂、車裏などが新築された。
 大慈寺界わいはかつて北上川の川筋であったことから湧き水が豊富で、その清水を、木管を通して引き共同井戸の水源としたのが、大慈寺そばの青龍水と鉈屋町の大慈清水である。
 水道がまだ普及しない頃は、人々が朝夕に集まり格好の社交場となっていた。いまでもこの貴重な共同井戸は、用水組合により大切に管理されており、この清冽な水を求めて町内の人たちが足を運ぶとともに、わざわざ遠くから車や自転車で汲みに来る人も絶えない。この界わいのそば屋や豆腐屋はこの水を商売に利用しており、「そばも豆腐も盛岡一うまい」と地元の人たちが誇らしげに語る。
 良質の水の湧き出る所では、うまい酒が造られるといわれるが、この地も例外ではなく、県を代表する酒造メーカーのあさ開が明治4年の創業以来脈々とこの地において酒造りを続けているほか、明治5年創業の老舗岩手川も鉈屋町に醸造工場を持つ。
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大慈寺の青龍水
 
全国の馬産関係者でにぎわった馬検場 
 
 古くから名馬の産地として知られていた岩手県。特に藩政時代には、南部馬の産地として名声を博した。盛岡城下で行われる毎年秋の馬市には、藩内はもとより全国から多くの馬産関係者が集まりにぎわった。この馬市が開かれたのが当時の馬町(現在の清水町、肴町)であり、明治になってからも管制の馬検場を中心として昔ながらの馬市風景が繰り広げられたという。
 馬産地岩手の象徴である馬検場が、新馬町(現在の松尾町)に移転して、さらに規模を拡大したのは明治45年のこと。以来、全国から馬産関係者を集めての馬市のにぎわいは、戦後まで続いた。跡地にひっそりと残る馬検場の建物からは、時が止まったかのようにいまでもセリ市の威勢の良いかけ声が聞こえてきそうだ。
 旧盛岡劇場は、当時の地元有志の出資により松尾町に建設され、大正2年に開館。木造三階建てのこの劇場は、盛岡に過ぎたるものといわれるほど立派な建築物で、中央の歌舞伎、演劇などが上演され、盛岡の文化の殿堂として多くの市民に愛された。しかし老朽化に伴って取り壊され、その跡地には、近代的な盛岡劇場・河南公民館が建っている。
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馬産地岩手の歴史を物語る馬検場だった建物




 

中野、茶畑、神子田界わい


川と緑に囲まれた盛岡市東部の住宅地



戦国武将が争った古戦場


 
 盛岡市の東部に位置する中野、茶畑界わいは、清流簗川など豊かな水と小高い丘の緑に恵まれた閑静な住宅地、国道4号バイパスなど幹線道路が通る交通の要所として、時代とともに発展を続けてきた。北上川沿いの神子田も戦後、新興住宅地として都市化が進み、その一角にある市民の台所・神子田の朝市が人気を集めている。
 茶畑・中野界わいが歴史の表舞台に登場するのは戦国時代の末期のこと。岩手郡の諸豪族を従えて本拠地の三戸(青森県)から南進してきた南部氏は、この地で紫波郡の有力豪族・斯波氏と刃を交え、簗川を主戦場に十数年にわたる一進一退の戦いを繰り広げた。このとき南部氏の前線拠点となったのが中野館で、盛岡八幡宮の南に位置する松尾神社の丘がその館の跡だ。
 南部氏によるこの地の支配が確立し、盛岡城が築かれると戦国時代の名残である館は廃止され、かわって城下警護のため上小路や神子田組町などの武家、足軽町がつくられた。さらに神子田組町の東端には神子田桝形が配置され、遠野・大迫街道や宮古街道などから城下に出入りする人馬の取り締まりにあたった。
 藩政時代、中野という地名は、簗川と中津川にはさまれた北上川流域の広い水田地帯を示していた。その一角を占める茶畑は、盛岡城を築いた南部利直が宇治から茶の種を求めて、茶商人に茶の栽培をさせた由緒ある場所であり、一面の田んぼの中に茶園があったことから茶畑と呼ばれるようになったという。
 また、岩手山や姫神山を遠くに仰ぎ、北上川や簗川を隔てて南昌山を望む山紫水明の地としても人々の人気を集め、南部藩主の別邸や南部藩重臣の下屋敷(別荘)、糸屋や木津屋など豪商の田屋(別荘)が置かれていた。
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静かに流れる簗川と、奥に見えるのが岩山

岩手の近代教育と岩手リンゴ栽培の発祥地


 幕末になると、簗川下流に盛岡藩の洋学校「日新堂」が開校する。釜石鉱山を開いた大島高任や西洋医学者の八角高遠が、化学、物理、医学、製錬、砲術、英語、オランダ語などを教え、岩手における近代教育発祥の地となった。世界的物理学者として名声を博した田中舘愛橘博士もここで教えを受けた一人である。
 明治時代、中野は岩手リンゴ栽培発祥地として一躍有名になった。現在の中野小学校の敷地に住んでいた古沢林という旧南部藩士が、明治5(1872)年に横浜から西洋リンゴの苗を取り寄せ、苦心の末に栽培を成功させた。これをきっかけにリンゴ栽培が県内に広く普及していった。
 戦前は水田とリンゴ畑が広がるのどかな農村地帯だったが、戦後の急激な人口増に伴う住宅建設により開発が進み、さらに国道4号バイパス(昭和44年開通)工事に関連して、茶畑、東中野、神子田などで大規模な土地区画整理事業が実施され、市街地として脚光を浴びるようになった。
 現在、茶畑、中野は閑静な住宅地として人気を集め、区界高原から流れる清流簗川の流域は、自然に恵まれた新興住宅地として静かな佇まいを見せている。天明、天保の大飢饉の餓死者供養のために建立された十六羅漢、酒の神として崇められている松尾神社など貴重な史跡も多い。
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江戸時代の大飢饉飢餓者供養のための十六体の仏像が安置されている十六羅漢公園

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酒の神が祀られている松尾神社

市民の台所・神子田の朝市


 市民の台所として人気の神子田の朝市は、昭和43年に南大通三丁目の明治橋際に開設されたのが始まりで、その後53年に駐車場不足の解消を図るため現在地に移転した。
 その開設のきっかけは、惣門近くにあった農協市場が、津志田の盛岡中央卸売市場へと移転されることが決まったことによる。農協市場の移転により市中心部における生産者の直売施設がなくなることから、生産者が主体となって組合を結成し、生産者と消費者が直結した朝市が誕生した。
 神子田の朝市は現在、野菜、果実、切花、山菜、漬物など店舗数は112。全国的にも珍しい通年営業の朝市で、組合方式では国内最大級の規模を誇っており、土日を中心として多くの市民でにぎわっている。
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多くの市民でにぎわう神子田の朝市

内丸・中央通り界わい


歴史を受け継ぐ城下町盛岡の中心地



 南部藩重臣の屋敷町として栄え、明治維新後は官公庁街として面目を一新した盛岡市内丸界わい。昭和40年代以降、オフィス街として急速に発展を遂げた中央通り。岩手県の行政、金融ビジネスの中心地として大きな役割を担う。城下町の風情と風格が残る"杜と水の都"盛岡市のシンボルである盛岡城址は、南部盛岡藩20万石の城下町として栄えた往時をしのばせる貴重な遺産。花崗岩をふんだんに使った石垣は見事で、白河城、会津若松城とともに東北の三名城と称される。
 盛岡城は、南部藩中興の祖である26代信直の子である利直によって慶長2(1597)年着工し、毎日2000人の人夫を動員しての大工事の末、寛永10(1633)年完成した。その後も落雷などによって櫓や火薬庫が焼失、その度に大修理が行われたほか、櫓の増設や石垣の補修なども繰り返された。
 明治維新では、幕府軍に組したため、城内の建物はすべて取り壊され、いまは石垣を残すのみだが、その石垣には17代275年に及ぶ南部藩主の居城としての歴史が深く刻まれている。

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旧盛岡城の石垣。現在の岩手公園


南部藩の重臣たちの屋敷町
 
 盛岡城の築城の場所として選ばれたのは、北上川、中津川に囲まれた中州の丘陵地帯。三方を川の囲まれた自然の要害である。しかし残る一方の西側は陸続きで、その守りを固めるために、中津川下流から水を引き、北上川本流と結ぶ外堀を築いた。この外濠の内側に作られた御屋敷町が内丸である。
 まさに盛岡城下の中心地域で、土塁と濠で固められたこの内丸に入るためには、中の橋御門、大手先御門、日影御門などの門を必ず通らなければならず、門の番所では門番が厳しく人の出入りを監視した。もちろん町人や旅人の通行はいっさい許されていなかった。
 城下盛岡の中心であるこの内丸には、北氏、八戸氏、中野氏、桜庭氏など南部氏一家一門のほか、600石以上の高知衆の屋敷が連ね、また広小路御殿、清水御殿など藩主の別邸もあった。南部家の家老である北氏の屋敷跡(現在の盛岡地方裁判所)に咲く石割桜は、樹齢350年前後と推定され、当時の面影を残している。
 
県の行政の中心として面目一新
 
 明治維新の激動は、南部藩にも大波となって押し寄せてくる。幕府方に組みした南部藩では、明治6(1876)年、盛岡城内の建物、城門などすべての施設は解体、一般に払い下げられ、石垣だけが残った。その後明治39(1906)年、旧城内は県によって整備され、県営の岩手公園として第二の人生を歩みことになり、昭和12(1937)年には国の史跡に指定された。
 内丸界わいについては、濠と御門が取り壊されて庶民の通行が自由になり、南部藩の重臣たちの屋敷もそれぞれ払い下げ、取り壊され、風格漂う武家屋敷町は様相を一変。それに代わって官庁や学校が建ち、行政、教育の中心として急速に変貌を遂げていった。
 現在の県庁付近にあった旧藩主の別邸(広小路御殿)が、県庁と定められたのは明治4(1871)年のことである。それに呼応して、いまの県公会堂の向いには仁王村・上田村の役場(のちに盛岡市庁舎として活用)、現在の盛岡地方裁判所には仙台裁判所の盛岡支所、盛岡警察署などの行政機関が次々に建てられ、いまに続く行政の中心としての片鱗を見せている。旧藩士の屋敷を利用して業務を開始した各機関も、明治中期になると相次いで庁舎を新築し、急速に体裁を整えていった。

南部藩中興の祖を祀る桜山神社と時鐘
 
 南部氏の遠祖南部光行と盛岡移城の大業を成し遂げた南部信直以下、利直、利敬 を祀る由緒ある桜山神社。旧桜山から現在の盛岡城跡の一角に移されたのは明治32(1899)年のことである。
 かつて、内濠の名残である亀が池と鶴が池に囲まれた広い境内には、神楽堂や二軒の茶店(餅屋)があるだけで、神社前から一の鳥居まで深閑とした雰囲気に包まれていた。ただ桜の木が多く、花見の季節になると多くの市民でにぎわったらしい。また亀が池は、いまよりももっと広く、冬になるとすスケート大会が開かれるなど市民の格好の遊び場だったようだ。
 神社付近が、現在のようににぎやかになったは、戦後、東大通商店街として開発されたからである。神社前から一の鳥居までの間には多くの商店、飲食店が建ち並び、独特の雰囲気を醸し出している。
 この界わいで、桜山神社とともに南部藩の歴史を物語っているのが、鐘撞堂である。藩政時代、盛岡城下の時鐘は日影門外小路(現在の盛岡中央郵便局付近)と旧十三日町の2カ所にあり、城下の人々に時刻を知らせていた。桜山の時鐘は、もともと現在の場所にあったのではなく、明治維新後、日影門外小路から移されたもの。延宝7(1679)年に鋳造されたもので、昭和30年頃までの約280年間、時を告げる鐘として使われた。盛岡市指定有形文化財に指定されている。
 
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桜山神社界わいの飲食店街


県下の産業発展の拠点となった勧業場
 
 中の橋から県立図書館、その南側の芝生広場、そして自治会館、東北銀行、盛岡東警察署一帯の広大の敷地には、明治維新後、維新で失業した旧藩士の生活自立のための授産施設として勧業地が設置された。
 県下の産業発展の拠点となった場所で、養蚕室、機業所、工業所、製糸所、陶器所のほか、物品陳列所や牛馬養舎、男女の寄宿舎など37の建物が並んでいた。その後明治中期には、いまの市庁舎のあたりには協同商社、向いの合同庁舎付近には種芸場もあった。
 また、明治になると内丸一帯に学校が相次いで創立される。現在の県議会議事堂のあたりには医学校、その向いには盛岡師範学校、そしていまの岩手医大、岩手銀行事務センターのあるところには盛岡第一高等学校の前身である尋常中学校という具合である。
 北日本銀行本店の西隣、「聖跡記念塔」のある場所は、明治6(1873)年まで藩校の作人館があった場所で、そのあとに仁王小学校が開校。さらに仁王小学校の移転後には、市立盛岡商業学校の校舎として使われた。岩手県の教育史上、重要な役割を果たしてきた場所である。
 
官公庁団地として計画的に整備を進める  

 明治以降、官公庁施設の集積が進み、県の行政の中心として歩んできた内丸地区。盛岡市は昭和32年に都市計画法に基づく官公庁団地に指定。内丸70ヘクタールを建物地域、街路、公園緑地に分けて計画的に整備を図ることになった。
 官公庁団地指定前にすでに盛岡地方検察庁、盛岡警察署が新築されており、昭和30年の盛岡市庁舎、昭和40年の岩手県庁舎の改築後も、国合同庁舎、県警察本部庁舎、消防本部庁舎、盛岡地方裁判所の新築や改築が相次ぎ、現在の内丸官庁街の景観が完成した。
 また、内丸官公庁団地との関連で、中央通りから大通二丁目、三戸町、長田町、梨木町一帯の旧市街を整備する仁王地区土地区画整理事業は、昭和34年にスタートし、昭和46年に完了した。また幹線道路の新設や拡幅、舗装などが進み、仁王地区は銀行保険会社のビルが建ち並ぶオフィス街として面目を一新し、今日を迎えている。

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盛岡市役所から望む県庁前通り

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岩手県庁

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岩手県内一のビジネス街・中央通り