昭和30年代、商店街には生活に必要なものがすべて揃っていた。風邪で家族が熱を出せば氷屋に走り、家には風呂がないかわりに銭湯が地域住民のコミュニケーションの場となった。浜藤酒造(現在の岩手川)の石炭ボイラーから提供される無料のお湯にはバケツを手にした近所の人たちが列をなした。そのお湯は食器を洗ったり、洗濯などに使われたが、なかには天秤棒におけをさげてお風呂のお湯にした人もいた。たちのぼる湯気を合図に駆けつけた人たちで、路地の一角のお湯くみ場は大にぎわいだったという。
そのお湯の正体だが、ボイラーをたく時に内部にできる炭酸カルシウム(石灰)の結晶を洗い流すために使ったもので、酒造りの職人さんたちのお風呂用に再利用されたほか、お湯くみ場を通して近所の人たちにも提供された。
岩手川第一工場でひときわ目立つ高い塔屋は、昭和30年に建設された焼酎の甲類を製造するための施設で、内部にはアロスパス式連続蒸留機が設置されている。この塔に寄り添うようにそびえる煙突は、清酒の瓶の洗浄や殺菌などに使うお湯をわかした石炭ボイラーのもの。昔はもっと高かったが、昭和39年6月16日の新潟地震の後、安全上の利用から現在の高さになった。

地域の住民に喜ばれた岩手川のお湯くみ場。第1工場は高いブロック塀に囲まれており、塀の外側、路地の一角でお湯をもらうことができた

岩手川のシンボルである石炭ボイラーの煙突。6階建てビルぐらいの高さがあり、周囲に高い建物がないのでよく目立つ
大きな工場がまちを潤し、活気づけた
大正5(1916)年の仙北町駅設置で活気づいたまちに、さらににぎわいをもたらしたのが同駅周辺への大規模な工場進出である。昭和12(1937)年、岩手県の主唱により県下主要会社などが出資して設立した岩手鉄工所(後の北日本機械)が同駅南側で産声をあげるとともに、翌13年には同駅西隣に東北振興繊維(後の東北毛織盛岡工場)が創業。北日本機械は鋼製橋梁、水門の設計、製造、架設などの業務に200人ほどの従業員が従事し、東北毛織も女性を中心に約400人などが働くなど、雇用の場の提供など地域経済の活性化に大きな貢献を果たし、まちを大いに潤した。
しかし東北毛織は36年、工場の閉鎖に追い込まれ、地元の女性など多くの人が職を失った。北日本機械は52年、玉山村の盛岡工業団地に全面移転を遂げている。東北毛織の跡地には自動車工場の誘致が計画されたが、残念ながら実現しなかった。市営西仙北アパートの東隣に広がるグラウンドが東北毛織盛岡工場跡地であることを知る人も少なくなった。一方、北日本機械跡地には、昭和55年に仙北地区活動センターなどがオープンした。
この東北手織盛岡工場跡地には、マイヤ(本社大船渡市)の食品スーパーを核に、ドラッグストアのマツモトキヨシ、100円ショップ、フィットネスクラブなどを配置した仙北ショッピングモール(仮称)が今秋の開店を目指している。

マイヤを核としたショッピングモールが建設される東北毛織盛岡工場跡地
盛岡バイパスと堤防工事が変えたまちの景観
仙北町界わいの景観に大きな変化をもたらしたのが、昭和30年代から40年代に行われた国道4号盛岡バイパスと北上川堤防の工事である。盛岡バイパスの工事は、昭和34年度から用地買収を行い、39年度に南大橋の工事に着手。41年12月、盛岡バイパスの起点である川久保から国道106号との交差点の区間2800mが開通した。
一方、昭和23年9月のアイオン台風の洪水被害などを教訓とする北上川の堤防建設は、左岸の仙北地区が34年から10年かがりで行われ、44年に延長3178mの堤防が完成。巨費を投じて造られた堤防は住民に大きな安心をもたらしたが、同時に堤防の工事で失われたものも少なくなかった。
そのひとつが、大正時代に南大橋付近の川原一帯を整備して造られた吉万公園だ。その名前の由来は、川原町の大店「吉万」の土地だったことに由来する。当時を知る人は「低い松林や池、藤棚などがあり、岩手山や北上川の風景とあいまって、それは見事な景色でした。八重桜もきれいでしたね。仙北町でお花見といえば、吉万公園と決まってました」と話す。現在、当時をしのぶかのように、南大橋付近ではベンチ、植栽、多目的グラウンドなど公園整備が進み、かつての吉万公園の名を刻んだ石碑も復活している。
また明治橋のたもとには、盛岡市消防第一分団(は組)の本格的な火の見櫓を持つ番屋もあったが、堤防の建設に伴って移転。明治橋から下流へと続いた石組の風流な土手も姿を消した。
多くの恵みをもたらした水のある風景
かつての仙北町界わいは、湧き水と大小の沼がある水のまちでもあった。暴れ川として知られる雫石川はいくたびも川筋を変え洪水などにより人々を苦しめてきた。仙北町界わいが雫石川の川筋であったこともあるという。かつて雫石川が流れていたことをうかがわせるのが小中島(現在の仙北三丁目)の地名だ。小中島ではいまでも、庭を深く掘ると水が湧き出てくるという話である。
大小の沼は、東北本線に沿って北からえび沼、長五郎沼、ふくべ沼、五合田沼の順にあったが、すべて埋め立てられ、跡形もなくなってしまった。そのうちで最大のものが、現在のいわて生協コープ仙北店付近にあった長五郎沼。雫石川の上流部を取水口とし盛岡市太田、飯岡や紫波郡の水田を潤している鹿妻穴堰の水が豊富な流れ込み、子どもたちの格好のつり場となっていた。また当時は学校にプールがない時代で、この沼で元気に泳ぎまわる子どもたちをよく見ることができた。
水のある風景は、仙北小学校付近を流れていた農業用水路や青物町などにあった湧き水、井戸など町内の至る所にあった。仙北町商店街の仙北小学校入口のT字路交差点にはかつて鹿妻堰をまたぐ万年橋という石橋があり、昭和30年代までまちの風景に溶け込んでいた。
姿を消すものと復活を遂げるもの
時代の移り変わりととともに、まちから姿を消していったものは数多い。大正4年の仙北町駅開業と同時に設置された駅前交番は昭和42年、盛岡バイパスの開業に伴って川久保に移転。南町(現在の仙北三丁目)にあった青物市場は、朝市として戦後から昭和40年代にかけて人気を集めていたが、いまはない。昭和25年に開設された南町児童遊園地は子どもの遊びとしてはもとより、地域の運動会や夏祭りの会場として活躍したが、惜しまれながら55年に閉鎖され、その跡地には盛岡南消防署仙北出張所が建っている。
姿を消すものが多いなかで、舟っこ流しの伝統は関係者の努力もあってしっかりと守られきた。そして平成12年には、盛岡城下火消「は組」の伝統を受け継ぐ盛岡市消防第一分団による裸参りが60年ぶりに復活。川久保にある一里塚の碑も地元有志の働きかけが実り、市によって新たなものに整備されている。
(岩手日報ぽらんに連載した原稿に一部加筆しました)








