2005年10月21日

秋田酒ものがたり(中)


新技術の開発成功で酒質向上
 
 明治になっても、秋田の酒は地方の地酒に過ぎなかった。酒づくりの技術が灘(兵庫県)など酒造先進地に及ばなかったことや、地主による兼業酒屋が多く、酒質の向上など企業努力に熱心ではなかったことが、秋田の酒の地位を低いところに留めておいた。
 しかし明治の後半から大正にかけて、専業の酒造業者が続々と誕生すると、「酒造王国」秋田の片鱗がやっと見え出した。灘など酒造先進地の高い技術を修得しようと、酒造関係者は積極的に県外に出た。湯沢の清酒「両関」蔵元の伊藤家に婿養子に入った忠吉はひときわ酒づくりに情熱を傾け、灘のほか東京の国税庁醸造試験場に学び、酒質の向上に努めた。この蔵元では秋田流寒仕込みである長期低温長期発酵法の開発に成功し、秋田の酒質の向上に大きな貢献を果たした。
 そうした関係者の努力が実り、「両関」は大正2(1913)年の第4回全国清酒品評会で優秀賞を獲得。これをきっかけとして秋田の蔵元は相次いで優秀賞、名誉賞に輝き、酒どころ秋田の名を全国に知らしめた。
 
秋田の酒づくりを牽引した銘酒「爛漫」
 
 明治38(1905)年の奥羽本線開通は、東北各県や北海道など県外への販路拡大をはかるうえでの大きな転機となった。優秀な秋田の酒を全国に広めようという県内の酒造業界
の熱い思いは、大正12年、同業界有志が集っての秋田銘醸株式会社(湯沢市)設立で具体化。同社が生み出した銘酒「爛漫」は、創業時に全国清酒品評会で優秀賞に輝き、昭和3(1928)年には名誉賞を手にした。この蔵元は「東北の灘」といわれる銘醸地湯沢の基礎を築くとともに、酒づくりに携わる人々の技術研修の場ともなった。
 大正7年、仙台税務監督局の花岡正庸技師が秋田県技師を兼務し、秋田県内の酒造技術の指導に心血を注いだことも、秋田の酒の質を高めることに大きく役立った。同氏は、県酒造組合連合会の伊藤恭之助会長らとともに、秋田銘醸株式会社の設立に奔走した人物でもある。秋田県の酒造業界の発展に貢献を果たした花岡氏は「秋田酒の父」として敬われている。
 当時、秋田県内の一流旅館など格式の高い場所では灘の酒が用いられ、一般家庭でも積極用には山形県鶴岡市の大山酒が振る舞われるなど、酒席の上座には県外酒が腰を据えていた。秋田の酒が県内の一流旅館などで用いられるようになったのも、花岡氏らの功績によるところが大きいといわれる。県産酒の愛飲運動は当時から行われていたのである。
(つづく)
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2005年08月26日

秋田酒ものがたり(上)


うまい酒づくりに賭けた熱意と情熱


全国有数の清酒王国・秋田


 秋田県は清酒の醸造に適した気候風土とうまい酒づくりに欠くことのできない良質な米と清冽な水に恵まれ、藩政時代から酒造業が盛んに行われてきた。最盛期には、県内に造り酒屋が159軒あり、現在でも51の蔵元が酒造りの技と心を受け継ぎながら酒造りに励んでいる。全国有数の銘醸地として、いまでこそ、「酒造王国」としての地位を揺るぎないものしているが、ここに至るまでには数多くの先人の苦闘など物語があった。
 全国3位の米どころである秋田県は、清酒の出荷量で全国生産高の約半分を占める兵庫、京都の2府県に大きく水をあけられているが新潟に次いで全国4位、成人ひとりあたりの清酒消費量は新潟県に続く2位と、酒造と消費の両面で全国有数の清酒王国となっている。しかも県内で消費される清酒のほとんどが秋田産であることがほかの地域にはない大きな特徴で、これは、秋田の酒に強い愛着と誇りを感じている県民性のあらわれであると同時に、県内酒造業界が灘、伏見など代表的な醸造地を含む県外からの清酒搬入に消極的な姿勢を貫き、県内清酒の消費拡大と県内蔵元の育成に努めた結果だともいわれる。

 

先進地・灘から三人の杜氏


 秋田佐竹藩は、早くから酒造を藩の重要な産業と位置づけ、評価の高い秋田米を原料とする清酒を、船便で江戸など中央に出荷することを計画。これにより藩の財政を豊かにしたいと考えていた。酒づくりに欠かせないのが、酒造りの専門技術者集団である蔵人をまとめる杜氏(とうじ)の存在である。
 播州(兵庫県)明石から三人の杜氏が、秋田藩に招かれたのは文化4(1807)年のこと。藩主佐竹義和の命により同年、城下町久保田(現在の秋田市)に開設された酒造方御試所(今日の醸造試験場のようなもの)で、三人の杜氏は酒造先進地の灘の酒づくりの技を秋田に伝え普及させ、藩内の酒造業の発展と酒質の向上を図るという大切な役割を担っていた。
 翌文化5年、灘の技法を取り入れたうまい秋田の酒がつくられたが、不運なことにその酒を運ぶ船が千葉沖で難破。江戸に着いたのは一部の酒だけだったが、三人の杜氏が心血を注いだ酒の出来は極めて良好で好評を博し、高値で取り引きされた。
 佐竹秋田藩では、この酒の増産準備を進めていたが、同年、三人の杜氏のうち主要な二人を相次いで病気で失うという予想外の出来事に見舞われた。一人残った杜氏や、新たに播州から招いた杜氏が酒造りにあたったが、寒地造りの経験不足などから、仕上がった酒は満足のゆく出来からはほど遠かった。このアクシデントをきっかけとして、秋田の酒づくりは先の見えない長いトンネルに入ってしまった。
(つづく)

  

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創業は今から約310年前という五城目町の蔵元・福禄壽。
posted by thnews21 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 【秋田酒ものがたり】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする