2006年10月07日

活力とふれあいのある「史都」 宮城県多賀城市

陸奥国を治めるため多賀城が置かれた史都

 宮城県中央東部、太平洋岸に近く仙台市と塩竈市の中間に位置している。国道45号が産業の動脈として市内中央を走る。土地はおおむね平坦で、東南に向かって平野が開け、仙台湾に面し工場地帯を形成している。西北部は丘陵性の高台になっており、西南部には田畑が広がり、中心部を砂押川が東西に貫流し、貞山運河を経て仙台湾に注いでいる。明治22年、13カ村が合併して多賀城村が生まれ、昭和26年に町制施行。同46年11月に市制施行し現行の多賀城市となった。
 市は、陸奥国を治めるためにつくられた多賀城で広く知られ、歴史・文化・自然の彩り豊かな「史都」と呼ばれている。多賀城は奈良時代、東北に土着していた蝦夷経営のために奈良時代の初期に築城されたもので、朝廷の鎮守府が置かれた。昭和38年から遺構の発掘調査が始まり、奈良・平安時代の多くの情報を提供してくれている。
 特別史跡多賀城跡(市川・浮島地区)は、全体が一辺900メートル前後のゆがんだ四角形をしていて、その周囲は築地(ついじ)と呼ばれる土塀が囲まれていた。中央部には約100メートル四方の政庁跡があり、この周囲にも築地がめぐらされていた。遺構は市内北端の市川地区全域を占めている。
 市川・浮島地区にかけて所在している「多賀城政庁跡に続く大路」は国の特別史跡に指定。多賀城址から南東へ1キロメートルほどの場所にある「多賀城廃寺」(高崎地区)は多賀城の附属寺院跡で、やはり国の特別史跡に指定されていて、現在は歴史公園として整備され、市民の憩いの場となっている。多賀城南門近くにある多賀城碑(壺の碑)は、日本三大古碑で、国の重要文化財に指定されている。市内高崎には東北歴史博物館があり、多賀城発掘調査の際の資料や東北の歴史を映像で体感できる施設などがある。

豊かな自然・水辺環境を保全しISO14001も取得

 史都多賀城は、古来から美しい自然に囲まれ、奈良・平安時代は都人たちのあこがれを集め、多くの官人や文人が訪れた地でもある。彼らによって、数多くの歌に詠まれ、周辺には「歌枕」となった地も多い。前出の「壺の碑」もまたその一つで、歌枕の地を訪ねて旅に出た芭蕉が、「壺の碑」を見つけて深く感動したことが「おくのほそ道」に綴られている。
 市内の豊かな自然環境を象徴するものに、加瀬沼周辺の水辺の風景がある。多賀城市・塩竈市・利府町にまたがる加瀬沼とその周辺一帯65ヘクタールは、昭和48年8月、県自然環境保全条例により緑地環境保全地域に指定された。
 加瀬沼周辺は暖地系植物、寒地系植物が混在し、植物相が豊富な地として貴重であるとされている。春は花見や新緑が楽しめ、冬にはハクチョウや多くの水鳥が観察され、市民の憩いの地として多くの人に愛されている。
 加瀬沼や砂押川などの水辺の環境は、市民の多くのボランティアによって守られている。花と緑のふれあいまつりや花のまちづくり事業などの緑化活動も、地域や市民が主体となっておこなっている。
 また、多賀城跡の一角、「多賀城跡あやめ園」には、季節になるとおよそ二150種類、150万本のあやめ、花菖蒲などの花が咲き乱れる。あやめは、市の花に制定されている。
 一方、市では平成14年2月に、地球環境問題に対処するための国際規格ISO14001を取得、職員みずから先頭に立って環境を守るための行動に取り組んでいる。

工業構造の変化に対応した環境整備と基盤確立を図る

 市の基幹産業となっているのは工業である。戦前、多賀城には海軍工廠が設けられていたが、終戦とともにアメリカ軍が駐留。その後昭和26年になって米軍が撤退し、その跡地に積極的な工場誘致が図られた。
 仙台・塩竈両都市の間に位置することや、昭和46年開港の仙台港の背後地にあることも有利に働き、以来、県内有数の工業地帯として発展してきた。昭和39年には新産業都市に指定されている。
 市は平成12年9月、第四次多賀城市総合計画を策定。将来の都市像に「活力とふれあいのあるまち『史都・多賀城』」を掲げ、まちづくりを推進している。
 工業においては、仙台港背後地に集積する工業地域を「工業ゾーン」として位置づけ、住工混在地の解消や敷地内緑化の促進等、公害防止にも配慮した上で、その整備に力を入れている。また、高度な技術や高付加価値の製品の開発が求められている近年の工業構造の変化に適切に対応できるように、産・学・官の協力による環境整備と工業基盤の確立を図るとともに、IT産業やベンチャービジネス産業などの新産業の集積を目指し、支援も行っている。

2006年10月06日

岩手山を望む観光と農業のまち 岩手県・旧西根町(現八幡平市)

 
不毛の地を開拓し生まれた大更御新田

 南西に岩手山、北に七時雨山がそびえ、その山々に囲まれた盆地に美しい田園風景が広がる大更、平舘、田頭、平笠。肥沃な土壌に恵まれ、奥羽山系を源とする松川、七時雨山に源を発する涼川の豊富な水資源をもとに古くから稲作が盛んに行われてきた。 
 文治5(1189)年、西根全域を含む岩手郡は鎌倉御家人の工藤氏の所領となり、工藤一族らによって平舘、田頭の水田開発が進められたようだ。その後天正年間(1573〜92)に、平舘城を拠点として平舘、田頭、平笠を治めていた平舘氏は一千石を有していたというから、当時すでにこの地において米の栽培が盛んに行われていたことが伺える。
 一方、大更は大きな湿地帯、荒れ地を意味するアイヌ語に由来しており、稲作に適さない土地だった。しかし元禄10(1697)年、南部藩主行信が、この大湿原に着目し、御側御新田(おそばごしんでん)として開拓に着手した。
 御側御新田というのは、藩主のお手許金によって開拓される新田のことで、新田からの年貢は藩に納めるのではなく、藩主の内帑金(ないどきん)、いわゆるポケットマネーとして藩主やその一族が自由に使えたという。
 新田開発に優れた手腕を発揮した新田奉行の高橋佐伝治らのたゆまぬ努力と農民の労苦が結実し、四十年後の元文3(1737)年には、生産高千百五石の美田として大更御新田が誕生。不毛の土地だった大更に戸数207戸、人口1041人の大きな村が出来上がった。
 大更の農民は、南部藩主の御直百姓(おじかびゃくしょう)としての誇りを持って、米の栽培に励んだということである。

人馬の往来でにぎわった沼宮内街道

 明治初期まで西根町内を通る陸上交通の幹線は、盛岡から平笠、田頭、平舘、寺田を通過し、七時雨の厳しい峠越えを経て、安代町の荒屋、田山、そして鹿角に至る鹿角街道(津軽街道)だった。現在は西根町内を南北に貫く国道282号線がその役割を担っている。
 また藩政時代には、地域の人々は鹿角街道以上に沼宮内街道の利用し、沼宮内街道は村の暮らしを支える大切な道路として多くの人馬が行き交った。
 それは、沼宮内には代官所があったし、馬のせり市も開かれていたほか、村で生産された米や雑穀などの取り引きも沼宮内の商人を相手に行われていたからだ。村人は、馬や農産物を売った金で、村では手に入らない塩、魚、衣類などを沼宮内で買って帰ったという。

町に活気をもたらした松尾鉱山
 
 こうした村に初めて”鉄道”が登場したのは大正4(1915)年のことである。松尾村の松尾鉱山創業に伴って、松尾村屋敷台と大更間の道路を利用し、人力による手押し車(トロッコ)を走らせる軌道を敷設、鉱山鉄道が開業した。松尾鉱山から産出された硫黄を満載したトロッコは、大更を目指し走り続けた。
 その後鉱山が発展するにつれ、鉱山鉄道も大きく姿を変え、昭和4(1929)年には馬車からガソリン気動車へとパーワーアップ。戦後間もない同26年には、東北本線より16年も早く電線電化を実現。その後上野から東北本線、花輪線を経由して東八幡平駅(旧屋敷台)への直通スキー列車も運行された。
 しかし地域の人々に親しまれた鉱山鉄道も同47年、東洋一の硫黄鉱山として隆盛を極めた松尾鉱山の閉山により、あっけなく廃止されてしまった。
 一方、大正8年には平館と玉山村好摩間に岩北軌道が正式開業したが、それから3年後の同11年に花輪線好摩〜平館間が開業したことにより、廃止の憂き目にあっている。

啄木の祖父母の墓がある平舘の大泉院
 
 平舘には、岩手の生んだ天才詩人、石川啄木の歌碑が平舘駅構内、大泉院境内と同庭園、それに平舘高校通りの四カ所にある。
 啄木にとって平舘は、父である石川一禎が生まれた地であり、馴染み深い土地なのである。一禎は、大泉院で仏門に入り、のちに岩手郡日戸村の常光寺、渋民村の宝徳寺の住職を務めながら、啄木を育てた。
 大泉院には啄木の祖父母や一族の墓があり、平舘には啄木の血族30人ほどが暮らしているという。

女性を中心とした伝統行事、平笠裸参り

 毎年1月8日に行われる平笠裸参りは、平笠の宮田神社から大更の八坂神社までの約12キロを、家内安全、無病息災、豊作などを祈りながら練り歩く伝統行事。岩手山の噴火を恐れた村人たちが、山神の怒りを鎮めようと、享保4(1719)年に岩鷲山権現に奉納したのが始まりといわれる。太平洋戦争中には出征した夫や息子の無事を祈る女性たちが参加したことから、いまでは女性を中心とした行事として定着している。
 同町の西にある岩手山焼走り溶岩流は国の特別天然記念物。岩手山が噴火し、吹き出した溶岩が冷えて固まってできたもので、長さ約3キロ、最大幅約1キロに及ぶ。周辺は国際交流村として日帰り温泉、天文台、キャンプ場などの施設が整備されており、多くの観光客を集めている。牧歌的な風景が広がる七時雨山麓も素晴らしい。 
 平成17年9月1日、安代町、松尾村と合併し、八幡平市として新たな歴史をスタートさせた。

2006年10月05日

古くから漁港・商港として発達 宮城県塩竈市

鹽竈神社の門前町として栄える

 宮城県中央東部に位置し、松島湾にのぞむ港まち。古くから東北鎮護・陸奥国一の宮として崇敬を集めた鹽竈神社の門前町として発展、また松島湾観光の入口として知られ、観光都市であるとともに、漁港・商港として発達した東北地方の重要な港湾都市である。
 市域東部の松島湾上に浮かぶ浦戸諸島は、松島県立公園の一部に含まれる景勝地。昭和16年11月、塩竈町から市政施行で塩竈市となり、その後、同24年に多賀城町の一部を編入。同25年に浦戸村を編入し、現行の塩竈市となった。
 市域発展のきっかけは、8世紀前半、多賀城に鎮守府と陸奥国府が置かれたことに伴うといわれる。多賀城から東北5キロほどの距離にあった鹽竈神社は、国府に近いこともあり、国府の神として朝廷をはじめ多くの庶民から崇敬を集めた。武神である香取・鹿島の神と、その教導の神としての塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)が合祀されている。
 鹽竈神社の由緒としては、醍醐天皇の延長5(927)年に編纂された『延喜式』に、当時陸奥国から朝廷への正税が六十万三千束の時代、一万束の祭祀料を授かっていたことが記され、これは後に「陸奥国一の宮」と呼ばれる歴史的背景となっている。まちは、鹽竈神社の門前町として古くからにぎわったのである。

伊達家の保護を受けて発展を続ける

 鹽竈神社への信仰は、武家社会になってからも途切れることはなく、多くの武将・豪族の崇敬を集めた。ことに伊達政宗は慶長12(1607)年、社殿を造営し奉斎を捧げた。現在の社殿は、第四代藩主綱村が元禄八年に神社造営の計画をたてて工事に着手し、第五代吉村の宝永元年(1706)まで9年の歳月をかけて竣工したものである。
 仙台藩時代になると、塩竈は城下町仙台への荷物の陸揚港として新しく発展してくる。しかし万治・寛文年間(1658〜1673)塩竈湾口の牛生から蒲生(仙台市)・苦竹(同)を結ぶ御舟入新堀・御舟曳堀が掘られたことにより、仙台城下への物資が塩竈を通らなくなったことなどから、町全体が一時さびれた。
 四代綱村は、塩竈の年貢を免除するほか、租税免除と下賜金、馬市の許可、見世物・芝居の春と秋の許可、自由に新田を開くこと、商人の品物・五十集(いさば)船・材木船は塩竈に着けるようにという「九か条の特令」を出した。伊達家の保護などもあり、再び町は大きく発展した。

築港工事の展開で、国内有数の商港・漁港に成長

 明治時代に入ると、同15(1882)年塩釜の築港工事が始められ、18年には現在の本塩竈駅前付近の5千坪の埋立地と海岸前の岸壁、そして約1500メートルの航路が完成し、商港塩釜の基礎が固まった。
 また明治20年に塩竈ー仙台間を結ぶ鉄道・塩釜線が開通すると、塩竈は物資の集散地として、ますます重要度を高めていった。
 明治40年には、塩釜港は第二種重要港湾の指定を受ける。翌41年には三陸汽船株式会社ができて、塩竈を起点とした三陸方面への旅客・物資の輸送航路が開かれた。さらにその後の築港工事の進展や、岸壁までの臨港線の完成、新漁港と1万トン岸壁の修築、大型岸壁の完成による大型船の入港などが続き、昭和30年代からは近代港湾都市へと大きく歩みだした。
 漁港としても、塩釜線の開通以後急激に発展した。昭和4年、荷揚岸壁の一部に上屋を設けて魚市場がつくられ、当時は東洋一の規模といわれた。水揚量の増加に伴い水産加工業も急速に発展した。 
 同26年にはそれまでの魚市場の対岸、杉ノ入表に新漁港の工事が始まり、昭和40年に完成。世界的漁場として名高い金華山沖海域に出漁する漁船の根拠地として、県外の漁船も多く入港するようになった。
 また近年、塩釜港はマグロ船団の基地となっていて、生マグロの水揚げ量は日本一を記録している。加えて、かまぼこなどの練り製品の生産量、1平方キロメートルあたりの寿司屋の密度も日本一となっていて、水産業は塩竈の基幹産業となっている。
 平成13年には塩竈港が東北初の特定重要港湾に指定、国際貿易港としての新たな発展に期待が寄せられている。

2006年10月04日

良質な水を生かした銘酒の産地 旧湯沢市(秋田県)

院内銀山で発展した佐竹南家の城下町

 秋田県南、横手盆地の南部に位置し、東に奥羽山脈に連なる国定公園、西に出羽丘陵があり、その間を南北に貫流する雄物川沿いに開けている。北は平鹿郡と接し、他の三方を雄勝郡に囲まれている。昭和29年3月、湯沢、岩崎の二町と弁天、幡野、三関、山田の4村が合併して誕生、翌30年に須川村を編入した。
 「湯沢」の名の由来は、今から約1300年前にさかのぼる。蝦夷征討にあたった坂上田村麻呂(756〜811年)が、この地に愛宕神社を建立し、地名を松沢としたのに始まる。その後、いまから約800年前に湯ノ原地区に温泉が発見され、以来湯沢と称されるようになったという。
 鎌倉時代には小野寺氏が湯沢城を築いた。湯沢城址は現市役所そばの古館山にあって、物見櫓、本丸、二ノ丸跡といった表示や、前森、裏門などの地名が今も残っていて往時をしのばせる。
 その後、関ケ原の戦い(1600年)後、常陸の国の豪族だった佐竹氏が秋田藩に国替えになった際、佐竹義宣は土崎の湊城に入り、佐竹南家の義種は湯沢城に入った。慶長8(1603)年、湯沢城主となった義種は屋敷割りをおこない、町並みが形成され、以来、湯沢は南家一族の城下町として栄えていく。なかでも大きな転機となったのは、慶長11(1606)年の院内銀山(場所は、合併前の旧雄勝町内)の発見である。
 院内銀山は佐竹藩の重要な財源を産出した山で、銀山周辺には元和3(1617)年当時で1300戸、7100人余り、さらに最盛の天保のころ(1830〜1844年)で1万5千人の集落地が形成され、その人口は久保田城下(秋田市)をしのぐほどであった。
 また、諸国より遊芸人・文化人も多く入り込み「出羽の都」といわれるほどの繁栄を誇った。湯沢は、院内銀山へ運ぶ物資の中継商業基地として大きく発展を遂げ、いくつか産業も生まれた。酒造業は、豊富な米と水に恵まれ、享保11(1726)年には27軒を超えたという記録が残っている。

「酒造業」「木工業」は高評価の地場産業

 明治に入り、同38(1905)年の奥羽本線の全線開通、昭和3年の湯沢と西馬音内を結ぶ雄勝電気鉄道の開通も、湯沢の産業に大きな変化をもたらした。
 江戸期からの木材業は、二路線の開通で湯沢が集積地となり、湯沢駅前には製材工場が設けられた。
 酒造業は、灘の酒と対抗するために、新技術の採用を積極的におこなう商店も出て、各商店や各杜氏の切磋琢磨で湯沢の酒は大きく発展した。明治40(1907)年、「庭の井(現在の両関酒造)」は、第一回全国清酒品評会で一等賞に輝いている。今日、湯沢は「酒のまち・東北の灘」といわれ、木材、家具・工芸などの木工業は地場産業として確固たる地位を保っている。
 第二次対戦後は、稲作のほかにリンゴ栽培が盛んになった。現在では、奥羽山脈の扇状地としての肥沃な土壌もあって、リンゴに加えて良質のサクランボ、キュウリ、トマトが栽培され、古くから有名な三関地区の芹(せり)とともに、消費者から高い評価を得ている。

継続された「雄湯郷構想」「ゆざわ21」

 市は昭和29年3月の市政施行以来、湯沢雄勝地方の行政、経済、文化の中心地として発展してきた。しかし、近年の少子高齢化、経済環境などの変化に対応するため、平成11年3月に「雄湯郷(ゆうとぴあ)」整備基本計画を策定、さらに同13年3月には湯沢市総合計画「ゆざわ21」を策定し、地域の活性化に取り組んできた。
 雄湯郷構想は、湯沢・雄勝(湯沢市、羽後町、稲川町、雄勝町、皆瀬村、東成瀬村)地域が人・物・情報の交流をとおし、活性化を目指していくというもの。
 平成17年3月、稲川町、雄勝町、皆瀬村との合併で新「湯沢市」が誕生したが、雄湯郷構想、「ゆざわ21」は継続され、目標に向かって推進中である。山田地区には保健医療・福祉施設の集積の整備が進み、ぐるっとロードは他市町村と綿密な連携を図りつつ着実に進められている。須川地区の温泉や山岳地を中核とする観光開発では、栗駒国定公園への西玄関口としての認知が高まり、泥湯温泉、三途川渓谷、川原毛地獄などの景勝地への中継地となっている。
 また市内の観光資源としては、浮世絵美人が描かれた数百個の絵どうろうが通りにかかげられる「七夕絵どうろうまつり」(旧暦7月7日)や佐竹南家の格式がしのばれる絢爛な「大名行列」(8月)、約390年の歴史を持つ民俗行事「犬っこまつり」(2月)などがある。
 

2006年10月03日

あきたこまちと花火の里 旧大曲市(秋田県)

群雄が割拠し、変転した戦国時代

 県南、穀倉地帯として知られる仙北平野の中心地である。昭和29年、大曲、大川西根、内小友、花館、四ツ屋、藤木の一町五村が合併して大曲市となった。翌年、角間川町を編入した。国道13号と105号が交差、秋田自動車道大曲ICにつながる。奥羽本線から田沢湖線が分岐し、首都圏とは新幹線で結ばれる交通結節点である。
 古代の人跡を示すものとして縄文後期の成沢遺跡、続縄文期の宇津台遺跡がある。ここで発見された妊婦型土偶は子孫繁栄や豊穣への祈りが込められた信仰を表す、珍しい出土品。
 奈良時代には律令制に組み込まれ、『和名抄』に余目が「山本郡余戸」として出てくる。坂上田村麻呂伝説も残っていて、蛭川薬師神社は大同2年(802)年、蝦夷平定のおり、戦勝を祈願した所とされている。
 鎌倉時代、仙北郡に勢力を張っていた加藤氏が支配していた。その拠点、大曲城は雄物川と丸子川の合流点に築かれていたとされる。北条鎌倉幕府の没落とともに同氏は衰退、台頭したのが戸沢氏であった。
 古四王神社は配下の富樫氏が元亀(1570)年に再建したといわれる。釘を一本も使っていない古建築の傑作。同氏は東南の高畑孔雀城に移り、前田氏が大曲城に入る。しかし、主家と反目して天正10(1582)年に攻められて滅び、大曲城は焼失した。
 慶長6(1601)年、全国の覇権を握った徳川家康は角間川に勢力があった小野寺氏を改易。同7年には戸沢氏・六郷氏を常陸へ移封。代わって入部したのが佐竹氏であった。

街道と水運と米づくりで発展

 佐竹藩は水田開発を進めるとともに、大曲が羽州街道の要衝であることから本陣を置き、宿場町とした。雄物川の水運にも着目して河港を整備した。角間川は流域右岸では最大の河港であった。商業の町として成立したのはこの頃である。
 この交通形態は明治維新後も続いたが明治38(1905)年、奥羽本線が開通したことで一変。物資の輸送は陸路が主流となり、水運は衰退した。
 古くから雄物川と丸子川の水に恵まれたことから穀倉となった。数次にわたる農業振興計画が打ち出され、先導的な取り組みが展開されてきた。減反政策の強化、コメ自由化は農業の構造転換を強いるものであったが、これを克服し、消費者のニーズに応えた「あきたこまち」のブランド化を推進。全国で高い評価を確立した。コメ専業農家では規模拡大が進む一方で、野菜・園芸などを取り入れた兼業・複合化が広がっている。

伝統の技術が生きる世界に広がる花火

 街道とともに発達し、農村を背後に控えた田園商業都市であることから大型店舗、量販店、公共施設の集積が進み、周辺から購買客を吸引している。県内では秋田市に次いで商業販売額が多い底堅い商圏を持つ。
 有力な地場産業である「大曲の花火」は日本三大花火大会として全国から観光客を呼ぶ。明治43年、第一回全国煙火競技大会が開かれたほど、大曲の花火師の伝統に培われた技術は高く、その活躍の場は世界に広がりを見せている。
 工業分野では弱電、OA、アパレル企業などが進出し、若者の定住化に寄与している。大曲ICから1キロの至近にある中沢工場団地が平成16年度に完成、分譲を開始している。

住みよさ・暮らしやすさ折り紙つきの田園都市

 当市は全国有数の住みよい都市として評価されている。これは「全都市住みよさランキング」(主催・東洋経済新報社)では平成11年から三年連続全国第一位となった。秋田新幹線及び自動車道などの高速交通網、医療・福祉施設などの充実度、商業集積による利便度、公園面積などの快適度、財政力などの富裕度、住宅床面積などの住環境充実度の各指標で高い数値を獲得したことによる。長年の行政努力が評価されたものであり、市民に誇りと勇気を与えた。
 仙北地方は秋田民謡の発祥の地。唄い継がれてきた文化を後世に伝えようとして毎年6月、「秋田おばこ節全国大会」が開かれる。全国からチャンピオンを目指す歌い手や民謡ファンにとっては人気の行事となっている。「大曲新人音楽祭コンクール」はクラシックの若手音楽家の登竜門。「音と光と水のまち」を掲げる地域づくりを支えるイベントに成長した。
 平成17年3月、中仙、西仙北、協和、太田、神岡、南外、仙北の周辺町村とともに新たな大仙市が発足。人口約10万人、財政規模5百億円の仙北広域圏の中心都市として発展を牽引している。

2006年01月15日

農業と観光に活路を拓く村。秋田県峰浜村

東北一の菌床シイタケ栽培

 海と山の美しい自然をイメージさせる村名・峰浜。日本海の砂浜と世界自然遺産の白神山地が織り成す自然は大きな宝である。ことし3月27日、八森町と合併し、八峰町として新たな歴史をスタートさせる。
 秋田県の北西部、青森県境近くに位置し、村の西側は日本海に面した砂丘地、東側は世界自然遺産の白神山地の南山麓となっている。1955(昭和30)年、日本海側の沢目村と山間部の塙川村が合併し、峰浜村が生まれた。その村名は、海の「浜」、山の「峰」に恵まれた村であることから名付けられた。1957年、塙川の一部である比八田、鳥形、外荒巻の三集落が分村して能代市に編入され、現在に至っている。人口は4610人(2005年国勢調査速報値)
 基幹産業の農業では、菌床シイタケ栽培に力を入れており、その生産規模は東北一を誇る。村ではさらなる生産規模の拡大と生産コストの軽減を目指し、第三センターによるホダ木製造工場や栽培ハウスの拡大などに努めている。特産品としては幸水、豊水、長十郎など峰浜ナシが有名である。
 国道101号沿いにあるポンポコ山公園は村を代表するレジャースポット。ポンポコ山ふるさと交流センター、道の駅、産直施設、ハーブ園などがあり、公園内ではラベンダー祭りやポンポコ山音楽祭などのイベントが行われている。
 世界遺産地域に隣接してブナ、ナラの天然林が広がる白神山系水沢川の上流部は1995年、林野庁の「水源の森百選」に認定された。このエリアには白神の自然を気軽に観察できる「ブナの森公園」がある。

2006年01月14日

日本海の漁業と観光の町。秋田県八森町

ことし3月、峰浜村と合併し八峰町に

 青森県境に位置し、世界自然遺産の白神山地の南西部に広がる町。古くからハタハタの産卵場として知られるなど県内有数の漁場を抱え、漁業を中心に発展。現在は漁業と観光が町の経済を支えている。1954(昭和29)年、「昭和の大合併」の県内トップを切って八森、岩館の両村が合併し、今日の八森町が誕生した。人口は4403人(2005年国勢調査速報値)
 藩政時代、大間越街道(現在の国道101号)の秋田藩領最北端に位置していた岩館村には、国境を接する津軽藩への備えとして境番所が置かれていた。村には院内(雄勝町)に次いで領内第二位の産出量を誇る銀山があり、最盛期の1627(寛永4)年には坑夫やその家族ら3千人が山にあふれていた。
 八森村は、岩館村と同じく古くから漁業が盛んで、秋田藩主の名にちなみ佐竹魚といわれたハタハタは、領外の陸奥にまで販路を広げ、八森の名を広く各地に知らしめた。
 16キロにわたる風光明媚な海岸線は、真瀬川の渓流とともに、県立自然公園の指定を受けている。日本海を望む御所の台ふれあいパークには、温泉保養施設のいさりび温泉ハタハタ館、各種スポーツ施設があり、1997(平成9)年にはJR五能線の新駅「あきた白神駅」が開業した。
 自然の岩礁を生かした海浜プールがある岩館海岸は、家族連れに人気の海水浴スポットだ。波が高い日でも波の影響もあまり受けず海水浴を楽しむことができる。この海岸を望む高台には、船の安全な夜間航行の道しるべとなるチゴキ灯台がある。日本海の夕焼けはうっとりするほど美しく、夏の思い出を印象深く演出する。
 岩館海岸の近くにある道の駅「お殿水」(おとのみず)は、国道101号の格好の休憩ポイント。津軽藩主が参勤交代の折に口をうるおしたという名水が味わえるほか、レストハウスなど施設も充実。ドライブの疲れを癒すのにうってつけである。
 今年3月27日には、南隣の峰浜村と合併し八峰町(はっぽうちょう)となる。

2005年12月15日

米代川に抱かれた秋田杉の里・秋田県二ツ井町 

ユニークなイベントでまちおこし
 
 材木や鉱石、米などを運ぶ水運でにぎわった米代川が町の中心部を流れる。秋田杉の産地として栄えた歴史を有し、天然秋田杉の美林が大切に保護されてきた。来年3月21日には隣接する能代市と合併し、新・能代市の一翼としての歴史をスタートさせる。

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米代川さくらづつみ公園
  
 同町の歴史は、明治9(1876)年、比井野、薄井の両村が合併して誕生した二ツ井村に始まる。比井野の井、薄井の井から二ツ井という村名を採用した。明治35年に町制を施行し、二ツ井町となった。昭和30年、種梅、荷上場、富根、響の各村と鷹巣町の一部、さらに同33年に能代市の一部をそれぞれ編入し、現在に至っている。

 古くから秋田杉の産地として知られており、この地を治めた佐竹藩は小掛、仁鮒など秋田杉の美林地帯を直轄管理。そこからもたらさせる収益は藩の財政を大いに潤した。
 荷上場の加護山に、粗銅から銅、銀を吹き分ける秋田藩加護山精錬所が操業をはじめたのは安永4(1775)年のことである。最盛期には製錬所の人口が300人から400人を数えるとともに、藩政末期には各種銅銭の鋳造が行われ、全国屈指の銭座として名を轟かせた。

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秋田杉や鉱山など町の歩みを伝える町歴史資料館

 明治、大正、昭和と時代は代わっても、小掛、仁鮒、濁川、田代沢などに日本三大美林と称された天然秋田杉が豊富に残り、林業が町の経済を支えた。合川と仁鮒を結ぶ森林鉄道は昭和28年開通し、大水害で廃止を余儀なくされた38年まで10年間、林業の発展に貢献した。

 県立自然公園のきみまち阪は米代川と藤琴川の合流点にあり、対岸に秋田杉原生林の七座山を望む景勝地。きみまち阪の名前は、明治14年、東北巡行の明治天皇がこの地にお立ち寄りになった際、陛下の長旅を心配された皇后からの手紙が待っていたことに由来する。
 こうしたロマンチックなエピソードにちなみ、町では平成6年から「きみまち恋文全国コンテスト」を開催し、大きな反響を呼んでいる。

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きみまち阪観光の拠点・道の駅ふたつい

 また丸岡一直町長(平成5年〜)のもと、「みどりのフロンティア」をスローガンに、環境を重視した施策を展開。環境に配慮した自転車のまちづくりでは、町内21カ所の拠点に約400台の共用自転車「チャリンジャー」を配置。町民や観光客が自由に自転車を利用できるようにし、自転車の利用促進を図っている。

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2005年12月13日

酪農とクリーンエネルギーのまち、岩手県葛巻町

緑豊かな高原風土を生かす

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袖山高原の放牧風景

 葛巻町は、藩政時代には塩の道「野田街道」の宿場町として栄えるなど、古くから内陸部と陸中海岸をつなぐ中継地の役割を果たし、また軍馬や木炭、金の産地としても知られていた。1955(昭和30)年には、葛巻町、江刈村、田部村が合併し現在の葛巻町が誕生した。

 北上山系に位置する同町は、町の総面積の86%を森林が占める緑豊かな高原風土と豊富な森林資源を生かし、酪農と林業を中心として振興を図ってきた。特に基幹産業である酪農は、1892(明治25)年に乳牛を導入して以来、百年を超える歴史を誇り、現在では同町の農業粗生産額の約80%を占めるまでに発展、東北一の酪農郷を実現している。

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くずまきワイン工場

 この酪農と畜産振興の牽引役となっているのが第三センターの葛巻町畜産開発公社。くずきま高原、袖山高原、上外川高原の三牧場を合わせた面積は約1100ヘクタールに達し、国内最大の規模の公共牧場として内外から注目されている。同公社の本部のあるくずまき高原牧場には、森林公園やキャンプ場、それに宿泊施設のくずまき交流館プラトーや葛巻ブランドの牛乳や乳製品を生産するミルクハウスくずまきが整備されている。

 葛巻町と山形村にまたがる県立自然公園の平庭高原は、日本最大のシラカバ林として知られる。同高原には第三センターの葛巻高原食品加工が経営するくずまきワイン工場があり、山ぶどうワインとジュースを製造。山ぶどうは鉄分を多く含み滋養強壮や疲労回復によく効くことから、昨今の健康志向を背景として順調に販売を伸ばしている。また隣接地には、森の館ウッディと炭の科学館がある。

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袖山高原の風力発電施設

風力発電を積極的に推進

 同町は、風力発電によるクリーンエネルギー構想を推進。馬淵川の源流がある袖山高原では、県内最大規模の風力発電施設が稼働。直径30メートルの白い風車は、岩手山や姫神山、八甲田連峰を見渡す広大な風景とともに、新たな観光資源となっている。さらに上外川高原には国内最大の大型風車12基からなる風力発電施設も稼働している。

 ミルクとワイン、それにクリーンエネルギーのまちとして葛巻町は、恵まれた資源を生かしての観光振興にも力を入れており、その成果として都市と農村との交流人口が近年大幅にアップ。都市部から観光や酪農体験などに訪れる人が増えている。東北新幹線いわて沼宮内駅からくずまき高原牧場までは車でわずか20分の距離にある。

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2005年11月02日

角館町(現・仙北市)

新たに築いた陣屋と町割

 県内陸部、仙北平野の北端に位置し、奥羽山脈に連なる小高い山に三方を囲まれており、東は和賀岳を望んで岩手県と境を接し、桧木内川が町中央部を北から南に流れる。「みちのくの小京都」と呼ばれる閑静な城下町である。
 明治22(1889)年、町村制の施行より角館町・雲沢村・白岩村・中川村が誕生していたが、昭和30年に合併して新・角館町となった。
 角館の歴史はこの地で覇を競った豪族たちの盛衰とともにあった。南北朝後半には菅氏と名乗る豪族が所領としていたが、室町に入って戸沢氏の支配に代わり、小松山といわれた地に角館城を構えて一帯を領した。
 戸沢光盛は天正18(1590)年、秀吉の奥州仕置で「出羽国仙北之内北浦郡」の大名として安堵された。その後を継いだ政盛は慶長7(1602)年、全国を制覇した徳川家康よって常陸へ転封させられた。これに代わって入部したのが佐竹義宣である。
 慶長8(1603)年、義宣の弟・芦名義勝が1万5千石を与えられて治めるところとなったが、元和6(1620)年、徳川幕府の一国一城令によって城が破却され、城下を移転。新たに町割をすることになった。これが現在の町並みである。承応2(1653)年、幼かった当主・千鶴丸が急逝し、後継ぎがなくなったために角館芦名氏は51年で断絶した。その後は佐竹北家の預り地として明治維新を迎える。

息づく武家屋敷街

 町の北側、内町には武家屋敷が立ち並び、南の外町は町人町である。武家屋敷街は昭和51(1976)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。閑静で美しい町並みは、春の枝垂れ桜(国指定天然記念物)・夏の青葉・秋の紅葉・冬の雪景色とともに多くの観光客を魅了し続けている。桧木内川堤の桜並木も春にはソメイヨシノが咲き誇る国指定名勝地である。
 足を向けてみたいのは郊外の抱返り渓谷と古城山城跡だ。抱返り渓谷は白岩岳の山麓を抉って八幡平から発する流れる玉川が流れる。夏の深緑と秋の紅葉が見事な変化を見せてくれる野趣あふれる渓谷である。
 町の北部にある古城山城跡は戸沢氏が築き、その後芦名氏が居城としていた角館城があった所。その山頂からは町が一望に見渡せる。


映画ロケを招致

 元来、横手盆地北部の行政・商業の中心地として栄えてきただけに、現在も近隣の町村を商圏として取り込み、商業・サービス業の集積が進んでいる。暮らしのなかに伝統が息づいている角館ならではの風物に定期市がある。藩政時代から続いているもので観光客も立ち寄る。
 主産業は「あきたこまち」が主力の米づくりだが、町の面積の7割が山林であることから林業も盛んだ。このほか市場の動向をにらんだ畜産、野菜、園芸、果樹などの複合化が進んでいる。地場で取れた野菜・花などを地元が積極的に先行して消費する地産地消も活発に行われていて、地元生産を支える基礎の一つとなって広がりを見せている。
 歴史と自然がマッチした景観が観光の目玉であるが、映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)のロケがきっかけになって、ロケを呼び込むことによって地域の活性化に結びつけるフィルムコミッション(FC)設立の気運が盛り上がった。これを受けて平成14年、住民参加による「かくのだてフィルムコミッション」が結成されて招致活動に入っている。
 武士の内職から始まり、明治になってから専業化した樺(桜皮)細工は特産で茶筒、筆箱、お盆などは民工芸品として観光客に人気がある。樺細工伝承館は文化、歴史資料、制作実演を体験できる広域観光の拠点。古い和風建築様式で落ち着いた佇まいを見せる。白岩焼は藩御用達だった窯で、今では美術品まで幅広く焼かれている。

伝統と近代文化を生かす

 平福記念美術館は日本画家で町出身の平福穂庵・百穂父子、平賀源内が才能を見つけたという、わが国洋画の先駆となった秋田蘭画の祖・小田野直武など郷土作家の作品を展示。新潮社記念文学館は同社を創業した佐藤義亮を顕彰して平成12年に開館、日本近代文学の流れを紹介している。
 「角館のお祭り」は毎年9月7日〜9日に開かれる。雅な飾山(おやま)囃子と手踊り、山車同士がぶつかり合う勇壮な「やまぶっつけ」からなる。静・動が対照的な祭りで平成3年、国指定重要無形民俗文化財に指定された。
 今年9月、田沢湖町、西木村と合併し、仙北市として新たなスタートを切った。引き続き地域の中核都市としての役割を果たすことが期待される。

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2005年10月31日

岩手町

北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」

 岩手町は、縄文時代や奈良・平安時代の遺跡が数多く発掘されるなど、農耕を中心に古くから栄えてきたことがうかがえる。その中心に位置する沼宮内は、江戸時代には奥州街道の宿場として藩の代官所が置かれるなど、この地域の中心としての歴史を刻んできた。
 明治維新後も、国の出先機関が設置されるなど岩手郡の中心として重要な位置を占めてきた。同町の発展に大きな役割は果たした東北本線沼宮内駅が開業したのは明治24(1891)年で、県北の物資輸送の拠点として最盛期には70人の駅員が勤務し、木材、野菜、木炭などの輸送で大いににぎわったという。沼宮内町、御堂村、川口村、一方井村の1町3村が合併し、現在の岩手町が誕生したのは昭和30(1955)年のことである。
 平安時代に坂上田村麻呂が祈願所として建立した御堂観音。その深閑とした境内には、北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」がある。この弓弭の泉には、前九年の役(1051〜1062年)で進軍した源義家が弓弭を持って岩にさしたところ、清水が湧き出て炎天下に苦しむ兵馬を救ったという言い伝えが残されている。

彫刻とホッケーのまち

 また同町は「彫刻のあるまち」「ホッケーのまち」としても知られる。昭和48年から続いている国際石彫シンポジウムは国内一の歴史を誇り、平成5年には、野外彫刻美術館として石神の丘美術館が開館。一方、町は昭和45年の岩手国体でホッケー会場となったことからホッケー競技を町技として普及させ、沼宮内高校の数々の全国優勝とともに、全日本選手を多数輩出するなど輝かしい伝統を積み重ねている。
 待望の東北新幹線盛岡・八戸間が平成14年12月1日に開業。停車駅のいわて沼宮内駅を擁する岩手町では広域交流、観光情報発信の拠点となる駅ビル・岩手広域交流センター「プラザあい」を完成させるなど、新幹線時代にふさわしいまちづくりを推進し、久慈市、西根町、盛岡市の中間に位置する地の利を生かしたさらなる発展に期待を高めた。
 国道4号沿いには、新たな観光拠点として道の駅「石神の丘」がオープン。町を一望する高台にあって、新鮮な野菜や花きを販売する産直施設や地元の食材をたっぷりと使ったレストランなどが人気を呼んでいる。あわせて石神の丘美術館はギャラリーと工房を新設し、新たな彫刻美術館として生まれ変わり、県内外からの多くの見学客を集めている。


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道の駅「石神の丘」。遠くに東北新幹線いわて沼宮内駅が見える

2005年10月07日

ふるさと探訪 秋田市


遷都400年の歴史と文化が息吹くまち

 秋田県の県庁所在地・秋田市は、佐竹秋田藩の城下町として発展を遂げ、いまでも城下町としての落ち着いた風情と豊かな文化の香りが色濃く残る。その一方で近代的なまちづくりも大きく進み、県庁所在地としての都市機能の充実が図られてきた。
 関ヶ原の合戦(1600年)後、秋田湊(現在の土崎)を拠点に秋田郡を治めていた戦国大名の秋田氏は常陸(茨城県)の宍戸に国替えとなり、代わって常陸から転封となった佐竹義宣が秋田入り。慶長8(1603年)年、久保田神明山(現在の千秋公園)に新城を築くとともに、佐竹秋田藩20万石の城下町にふさわしい町づくりに着手。その後、約270年にわたり秋田は藩の政治、経済、文化の中心を担いながら大きく発展し、明治維新後は県庁所在地として近代的なまちづくりが進められた。

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千秋公園(旧久保田城)に復元された御隅櫓

軍隊の進出をきっかけに新しいまちづくり

 明治22(1889)年、秋田県内では唯一、秋田町が市制を施行し、秋田市が誕生。発足当時の秋田市の人口は29,279人。
 日清戦争が終わって間もない同29年、県、秋田市などによる誘致運動が功を奏して、仙台市に置かれていた陸軍歩兵第17連隊と第16旅団司令部の秋田市移転が決定。上中城町(現在の千秋久保田町)には司令部と衛戌病院、長野町、土手谷地町、中谷地町(現在の中通二、四、六丁目の北地区)には連隊の兵舎、手形東新町、手形西新町、手形本新町、手形休下町(現在の手形住吉町、手形休下町一帯)には練兵場が置かれることとなった。
 市では土地の買収、用地の整備、建物移転費などを負担し、軍隊の受け入れに万全を期した。秋田市となって初めての新しいまちづくりである。第一陣として第17連隊第一大隊が秋田市に到着したのは明治31年のことだ。
 上野・青森間の東北本線開通から遅れること14年、明治38年奥羽本線が開通し、歩兵第17連隊に近い手形郷長沼に秋田駅が開業した。鉄道の開通によって秋田の表玄関は土崎港から秋田駅へと移ったが、その土崎には41年、国鉄土崎工場が設置されるとともに、43年には日本石油秋田製油所が進出するなど、工業を主体として活気を取り戻していった。
 初代の秋田市役所は、土手長町中丁の南秋田郡役所を活用したものだが、明治38年に放火による火災で焼失。それに代わる新庁舎は、千秋公園西側(現在の千秋矢留町)にあった秋田監獄跡地に建設され、同42年に完成した。その後、増改築などを繰り返し、現在の市庁舎が山王一丁目に完成する昭和39年まで市の中枢としての機能を果たした。

雄物川改修関連で茨島、新屋を埋め立て

 県南部の穀倉地帯で生産される米を中心とした農産物を土崎湊に運ぶ重要なルートとして藩政時代から船運で栄えた雄物川だが、ひとたび大雨になると洪水を繰り返す暴れ川へと、ふだんの穏やかな表情を一変させた。特に河口に近い仁井田、四ツ小屋、牛島など秋田市南部の被害は甚大だった。
 この雄物川の改修は、たびたび洪水に悩まされてきた流域住民の悲願であり、明治28年頃から計画されたが具体化されるまでには至らなかったが、大正6(1917)年、国と県の直営工事による改修がスタート。雄和町付近から蛇行しながら土崎港に至る流れを、新屋砂浜の開削によって放水路を建設し、そのまま日本海に注ぐ流れに変えようという一大工事だった。
 この改修工事は、22年の歳月と約1200万円の巨費を投じて昭和14年に完成。これによって流域の住民は大雨や台風の際にも安心して寝れるようになった。
 工事によって発生した大量の土砂は茨島や新屋の低地埋め立てに使われ、整備された土地には工場の誘致が進められ一大工業地帯へと発展を遂げていった。茨島地区には、昭和10年代、東北肥料秋田工場、東北機械製作所茨島工場、三徳秋田工場、戦後になると、21年の秋田林産、25年の三菱金属秋田製錬所など進出が相次いだ。一方の新屋地区には、同13年に東北パルプ秋田工場が進出を果たしている。

日本一の産油量・活況を呈した八橋油田
 
 古くから秋田市八橋では、地元の住民が自然に湧き出た石油を屋外灯火などに利用し、明治2年には千蒲善五郎による石油採取が行われている。
 同6年から7年には同市濁川と南秋田郡金足村黒川(のちに秋田市に編入)、同市外旭川などでも手掘りによる石油採取が始まった。秋田に進出した日本石油株式会社が、県内最初の油田として同41年には旭川油田、続く大正2年には黒川油田と開発を成功させている。特に黒川油田は年生産量15万6000キロリットルを達成し、日本有数の大油田として注目された。その最盛期は昭和の初めまで続き、県内の油田開発ブームの火付け役となった。
 そして昭和10年代には八橋油田が全盛時代を迎える。日本鉱業、日本石油が相次いで大油田の開発に成功し、全国産油の70パーセント以上を占めるなど国内トップの産油地帯へと発展を遂げた。土崎と船川には製油所は置かれ、フル稼働で製油にあたった。
 八橋油田を中心として石油王国・秋田の名が全国に広く知られるようになった。
 しかしその一方で、戦時中は日本石油秋田製油所のある土崎が空襲に見舞われ、大きな被害を被った。終戦間近の昭和20年8月14日夜、B29から投下された爆弾は同製油所だけではなく、周辺の上酒田町、新城町、七軒町などにも落ちた。四時間ほど続いた爆撃で、同製油所が壊滅的な被害を受けたほか、一般住宅など104の建物が全焼し、民間人の死者は86人に達した。

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土崎地区の鉄道の玄関口・JR土崎駅

大秋田市の誕生と山王官庁街地区整備

 昭和28年施行の町村合併促進法に基づき、翌29年には太平、外旭川、飯島、下新城、上新城、浜田、豊岩、仁井田、四ツ小屋、上北手、下北手、下浜の12カ村、30年には金足村を合併し、大秋田市が誕生した。市の面積はそれまでの3.5倍近くに広がり、人口も約1.4倍の19万人となった。
 秋田市は、29年に策定した市総合都市計画を指針として、市内に分散している官公庁を一地域に集中させる新しいまちづくりを計画。対象となったのが旧市街と八橋運動公園の間の広大な田園地帯で、面積は約14万3,200平方メートル。国、県、市の施設用地や、道路などの交通用地、公園などの緑地用地に線引きされ、大かがりなまちづくりが進められることになった。
 こうして整備された山王地区に、34年に県庁舎、39年に市庁舎が完成。その後も裁判所や検察庁、国の施設などが相次いで完成したほか、NHK秋田放送局、民間のビル、ホテルなども進出し、秋田市を代表する官庁、ビジネス街となった。
 県産業会館前から山王官庁街に通じる山王大通りは、県が43年から整備をはじめ、46年に山王十字路までの区間が完成した。

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官庁街・ビジネス街の山王大通り

新産業都市指定で秋田港整備が進む

 秋田市を中心とする秋田港地区が新産業都市の指定を受けたのは昭和40年のこと。これを受けて44年には国と県による秋田港地区大規模工業開発がスタート。秋田港から船川港までの26キロにわたる湾岸海面を埋め立て、港湾施設の建設と基幹工業用地を造成しようという計画だった。
 その拠点である秋田港では、41年に本港中島岸壁に15,000トン岸壁、45年には北新港が完成した。その後も新たな岸壁や防波堤の整備などが進んだ。また東北電力秋田火力発電所の進出や、秋木工業、東北製紙、プライウッド、東洋合板など大型工場の立地も相次ぎ、一大工場地帯となった。

公園都市を目指し花と緑のまちづくり

 秋田市は昭和48年、全国にさきがけて「公園都市秋田市をつくる条例」を制定。土地の乱開発を防ぎ、自然の守り、美しい緑の公園都市づくりを進めるのが目的で、市内の名木や古木12,000本余を保存樹木として保護するとともに、緑と花を添える100万本運動などを展開。
 こうしたなか、48年には八木山動物園、61年には一つ盛り公園が完成。市制施行90周年の54年には、花100万本運動のシンボルとして市役所前に花時計がおる目見えした。市制施行90周年の記念事業では、市文化会館が建設され55年に開館している。
 赤れんが館(旧秋田銀行本店)は修復され、60年に赤れんが郷土館としてオープン。旧明徳小学校跡地に市立中央図書館が完成したのは58年のことである。さらに60年には、御所野における職・住近接の新しいまちづくりがスタートした。
 市として着実な発展を遂げるなか、60年、秋田市の人口は30万人を突破し、仙台市に次ぐ人口規模を誇る東北第二の県庁所在地となった。
 平成元年には、市制施行100周年を迎え、盛大に記念式典が行われるとともに、記念事業として秋田総合生活文化会館(アトリオン)・市立美術館が開館したほか、千秋公園における御隅櫓の復元が図られ、新たな観光のシンボルとなった。
 太平山周辺の豊かな自然を観光開発に生かそうとスタートした太平山リゾートパーク事業では、3年にクワドーム「ザ・ブーン」がオープン。また、かつて海の玄関口としてにぎわった秋田港を中心とした土崎地区の再生を目指すポートルネサンス21事業では、秋港のランドマークタワーとして6年にポートタワー・セリオンが誕生した。

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ポートタワー・セリオンは秋田港
のランドマーク


中核市移行を実現

 秋田新幹線秋田駅が開業した平成9年には、中核市への移行を実現した。
 保健、福祉、環境など市民生活に密着した分野の事務の権限が県から市へ移譲され、きめ細かな対応による市民サービスの向上が図られるようになった。また都市計画や土地区画整理事業などのまちづくりに関する権限などの事務が県から市へ移譲されたことにより、これまで以上に地域特性を活かした 個性豊かなまちづくりを推進できるようになるなど、中核市の持つメリットは数多い。交流人口の拡大や企業立地の促進など地域経済の活性化が期待される。
 現在、生活環境の整備や交通網の充実、福祉の向上、教育・文化の振興などさまざまな施策が展開され、市民の期待に応えている。秋田駅東口では新しいまちづくりが進められ、平成17年には東口駅前に拠点施設としてアルウ゛がオープン。市西部と駅東口を結ぶ秋田中央道路の建設も進んでいる。平成17年1月11日には、河辺町、雄和町を編入し、新・秋田市となった。
(秋田ふるさと物語に掲載した原稿を一部修正)
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秋田駅東口と拠点センター・アルヴェ
 

2005年09月13日

ふるさと探訪 秋田県能代市


港を中心に産業、文化の花開く

 藩政時代、能代の港町は秋田杉や鉱産物などの積み出し港としてにぎわい、明治以降は木材産業が市の発展を牽引した。戦後、二度の大火を教訓に火災に強いまちづくりが進んだ。全国優勝の名門・能代工業高等学校を擁するバスケのまちとしても全国に知られる。

戦国大名・安東氏の拠点となった桧山城

  能代市は、能代港とともに発展を遂げたまちである。能代港の名は、古くから文献に登場するなど、日本海沿岸で重要な位置を占める港であったことがうかがえる。
 南北朝時代、津軽に本拠を持つ安東氏が山本、南秋田、男鹿方面に進出し、浅利氏などほかの有力豪族と対立抗争を繰り返したが、次第に戦国大名としての地位を確立。その後、明応4(1495)年、桧山(能代市)に城を築き本拠とした桧山安東氏、秋田郡を支配し土崎湊(秋田市)の城を拠点とした湊安東氏に分かれ争っていたが、愛季の時代になって安東氏(後の秋田氏)に統一された
 弘治2(1556)年、愛季は、米代川の河口に北国船による物資の交易拠点を築こうと、能代湊の町づくりに着手。家臣の清水治郎兵衛の統治のもと、着々とまちづくりは行われ、拠点性を高めていった。特に米代川上流から切り出される秋田杉や阿仁などの鉱山から産出される金、鉛などの鉱産物、米、大豆などの農産物の、京都など関西方面への積み出し港として活況を呈するようになる。 
 関ヶ原の合戦(1600年)の後、徳川幕府によって秋田氏は常陸(茨城県)の宍戸に国替えとなり、それに代わって常陸の佐竹氏が秋田六郡20万石を領有することとなった。

大洪水と大地震を経て能代へと改名

 新しい領主となった佐竹氏は、新田開発や鉱山開発などに力を注いだことから、秋田杉、米、鉱産物の一大集散地であり積み出し港、日本海交易の重要な港として能代はますますにぎわいを増し、それに伴って町も規模を拡大しながら発展していった。
 「東遊雑記」には、天明8(1788)年の能代の様子について「1400軒の大概のよい町で、北国、九州、大坂の廻船も多数入津し、商店多く豪家があり」と記載されている。
 古くから能代は「野代」という地名で表記されていたが、元禄5(1692)年の米代川大洪水、同7年の死者300人、家屋倒壊1400の大地震、宝永元(1704)年の死者72人の地震と立て続けに災害に見舞われたことから、「このままでは街が代わって野になりかねぬ」という危機感から、「能く代る」と「能代」へと期待を込めて改名した。

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世界自然遺産の白神山地を望むことができる能代港のはまなす展望台


飛砂から守る広大な砂防林「風の松原」

 能代地方は、海岸からの飛砂に悩まされてきた。現在の能代市は、幅1キロ、延長14キロの広大な黒松林「風の松原」によって守られているが、この防砂林の植林に着手したのは正徳3(1713)年のこと。町人の越前屋久右衛門と越後屋太郎右衛門が、後谷地に4000本の松苗を植えたのが始まりである。最初は何度も失敗を繰り返したが、植林した松苗を保護する風よけの垣根を作り替えるなど工夫を重ねてやっと成功にこぎつけた。
 こうした先人の防砂林づくりに対する情熱は、子孫や白坂新九郎、鈴木助七郎ら町人に受け継がれ、植林の面積を拡大し、80年間で30万本が植えられたという。さら藩でも植林に力を注ぎ、賀藤景林らがその任にあたった。特に景林は文政5(1822)年から、般若野を中心に77万本の松を植え、そうした功績は景林という地名と景林神社に名を残す。父の偉業を継承した景栞も、寛永6(1853)年までに能代浜に30万本の黒松を植えている。

豊富な秋田杉を活用し「木都能代」を目指す
 
 明治22(1889)年の町村制施行に伴って、能代港は能代港町となった。当時、町の発展を担ったのは木材産業で、秋田杉の利用、開発による産業振興を目指す井坂直幹が機械製材を導入し、明治40年秋田木材株式会社(秋木)を創立。秋木の創業に刺激を受けて、大小の製材工場が続々と建設されるとともに、木材加工業の発達も加わって、「木都能代」が誕生した。
 昭和15年、能代港町が東雲(しののめ)村、榊村を合併し能代市が成立。人口は3万8千人。秋田市に次いで秋田県で二番目の市の誕生である。17年に扇淵村、30年には、農工商一体の文化産業都市建設を目指し檜山、浅内、鶴形、常盤の1町3村、32年には峰浜村の一部を編入し、現在の市域となった。
 能代の木材産業は、特に第一次大戦中は好景気に湧いたが、その後は不況となり第二次大戦を迎えた。しかし戦後は、復興に伴う旺盛な木材需要から再び活気を取り戻し、昭和30年代、40年代の住宅ブームでも売り上げを伸ばした。

防災都市づくりと港湾整備を積極的に

  昭和24年、32年の大火では、市街中心部の大部分にあたる110万平方メートルを焼失。約4千世帯が焼け出され、被害総額は70億円に達した。この大火を教訓として市は、「焼けない明るいまちづくり」を目指し、防災を重視したまちづくりを推進。大規模な都市計画、土地区画整理事業を実施し、道路網の整備拡幅、緑地帯の造成、住宅街、防火帯商店街の建設などに取り組んだ。
 今日の能代港は、戦後、米代川の改修とともに整備がはじまり、昭和48年に待望の5千トン岸壁が完成し、翌49年に木材輸入港として開港。55年には1万5千トン岸壁も完成した。
 また石炭火力としては日本最大の能代火力発電所の誘致が実現したことから、56年、エネルギー港湾としての位置づけとともに重要港湾としての政令指定を受け、6万トン岸壁建設計画が決定された。
  平成13年には4万トン岸壁の擁する能代港多目的国際ターミナルが完成し、大型貨物船の入港が可能となり、それまで青森、秋田、酒田等の港に陸揚げされてから能代に陸送されていた輸入木材の直接の陸揚げによってコストの大幅な削減が期待された。

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東北電力の能代火力発電所


バスケのまちづくりで交流拡大

 能代工業高等学校バスケット部は、昭和42年埼玉国体での初優勝を皮切りに全国優勝50回以上を数える名門。インターハイ7連覇、3年連続三冠など偉業を達成し、高校男子バスケットで不滅の金字塔を打ち立てている。
 能代市では、こうした同校バスケット部の活躍を讃えるとともに、まちづくりに生かそうと平成元年、1億円ふるさと創生事業として「バスケの街づくり」事業をスタートさせた。
  これまで、市総合体育館や能代山本スポーツリゾートセンター「アリナス」などスポーツ施設の整備拡充を図る一方、児童公園等へのバスケットリングの設置を進めてきた。またこれらスポーツ施設を活用して、全国から強豪チームが集まる高校選抜バスケットボール大会・能代カップなど各種大会の開催や合宿誘致等に取り組み、バスケットのまち・能代のイメージアップと交流拡大を図っている。
 平成18年3月21日には、隣接する二ツ井町と合併し、新しい能代市として新たな歴史を踏み出す予定である。(秋田ふるさと物語の掲載原稿を一部訂正)

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高校男子バスケットボールの名門・県立能代工業高等学校

2005年09月06日

ふるさと探訪 青森県田子町

日本一の質・量を誇るニンニク生産地

 田子町は、青森県の最南端に位置し岩手、秋田の両県に接している。十和田湖の南に広がる山々など町の面積の80%を山林が占める。アイヌ人の言葉で「小高い丘」を意味する「タプコフ」が町名の由来とされる。田子町の前身である田子村は、藩政時代を通じて南部藩領に属し、明治22(1889)年には相米村と合併し新・田子村となり、昭和3年、昭和天皇即位大典を記念して町制施行。同30年には上郷村と合併し、現在の田子町となった。
 町中心部の西南に広がる高台は、青森県三戸地方を本拠としていた戦国時代の豪族・南部氏が居を構えていた田子館があった場所である。明応年間(1492〜1500)、南部家20代信時が隠退の住まいとしたほか、26代信直も住み、天正4(1576)年にはこの館でその子の27代利直が生まれている。信直は南部藩中興の祖といわれる傑物で、戦国時代末期、三戸から軍を率いて南下し幾多の合戦の後、岩手県北、県央の覇権を手中に収めることに成功。その跡を継いだ利直は、慶長2(1597)年、盛岡での城づくり、城下町づくりに着手するなど、南部盛岡藩の礎を築き、明治維新まで続く同藩の発展につなげた。
 鹿角街道は、南部藩領の鹿角郡での金山開発を契機として17世紀初め、信直が整備に着手。盛岡城下から荒屋(八幡平市安代)、田山(同)を経て鹿角(秋田県鹿角市)に至り、さらに田子、三戸に至る道筋で、尾去沢(おさりざわ)鉱山と盛岡城下を結ぶ重要な街道であった。
 田子村には、同街道の宿駅、継場が置かれて以来、藩政時代を通じて交通の中継点としての大切な役割を担っていた。宿駅には、伝馬朱印状を携えた藩の公用物資を無償で次の宿まで輸送することが義務付けられている一方、旅客を宿泊させることや一般物資の輸送で利益を得ることが許されていた。次の宿駅までの荷物輸送を行う伝馬所には伝馬と人足が常時詰め、その伝馬所を中心として制札場、役人宿のほか、旅人の宿泊や休憩のための施設、旅人や人足、近隣住民を相手にした酒屋など商売屋が集まり田子町と称される町並みを形成し、にぎわいを増した。
 明治維新後、九戸県、八戸県、斗南県、弘前県などを経て、明治4(1871)年、青森県となった。かつては県内一の木炭生産高を誇る「林産の町」として栄えていたが、その後エネルギー事情の変化などから木炭の需要は低下。それに代わる産業として畜産に活路を求め、肉牛生産の拡大に力を注いだ。
 現在、町の基幹産業は農業で、特に豊かな自然環境を生かして生産される特産のニンニク(福地ホワイト六片種)は田子牛とともに中央市場で高い評価を受けている。このニンニクは昭和44年から栽培が本格化し、同56年には質・量ともに日本一に輝いている。7月上旬、わずか2週間の間に2千数百トンものニンニクが一斉に収穫されるという。この時期、町を訪れると、幹線道路沿いの無人販売所などで収穫したてのニンニクを格安で手に入れることができる。
 同町は日本一のニンニクを貴重な地域資源としてとらえ、ニンニクの新商品開発やニンニクにこだわった観光振興などを積極的に展開。このニンニクのまちづくりの一環として同町は、昭和63年、米国一のニンニク集積地のカルフォルニア州ギルロイ市と姉妹都市締結し、高校生の相互短期派遣などを通して交流を深めてきた。
 平成11年、豊かな自然のイメージを傷つける国内最大規模の産業廃棄物不法廃棄事件が発覚した。同町と岩手県二戸市にまたがる約27ヘクタールの原野に大量の産業廃棄物が不法投機され大問題となったが、現在、青森、岩手両県を中心とした汚染拡散防止、現状回復、環境再生などの対策が着実に進められている。
 

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平成6年に完成した情報発信基地・タプコピアンプラザ。445席のホール、町立図書館、田子町ケーブルテレビジョンなどから成る。UFOをイメージさせるユニークな外観が特徴
 
 



 

2005年09月04日

ふるさと探訪 秋田県小坂町


小坂鉱山の歴史に彩られた町


 秋田県北東部に位置し、小坂鉱山とともに発展を遂げてきた町。藩政期には南部盛岡藩の支配下に置かれ、鉱山と豊富な森林資源が藩の財政を潤した。昭和30年、旧・小坂町と七滝村が合併し、今日の小坂町が誕生。隣接する青森県十和田湖町(今年1月1日、十和田市と対等合併し新・十和田市となった)との間では十和田湖の境界線画定をめぐる協議が、明治以来、130年以上続けられているが、今日に至るもまだ解決していない。国立公園十和田湖など豊かな自然と鉱山の歴史・文化を貴重な資源として観光面の充実に力を注ぎ、同鉱山閉山後の地域活性化を図っている。
 小坂鉱山は、文久元(1861)年に発見され、南部藩の経営のもとで金や銀を採掘していた。明治維新によって官営鉱山となり、さらに明治17(1884)年には大阪の藤田組に経営が引き継がれ、国内有数の鉱山としての地位を確立した。しかし明治30年代に入ると土鉱と呼ばれる鉱石の枯渇により経営が低迷したが、黒鉱の自熔製錬という革命的な製錬法を生み出し息を吹き返し、その後は増産を続け、日露戦争後には鉱産額全国一を達成。さらに国内初の露天掘の成功も発展の大きな原動力となった。
 日本一の鉱山として名を轟かせるなか、巨費を投じたルネッサンス風の鉱山事務所が明治39年に、従業員の慰安施設として康楽館が同43年にそれぞれ完成し、全盛期を迎えた同鉱山の力を全国に示した。
 当時、小坂町には、水力発電所から送電で県内最初の電灯が灯り、上水道、電信電話、病院、学校などの施設も整っていたほか、小坂鉄道が東北初の私鉄として開業。明治末期には、町の人口が2万数千人を数え、秋田市に次ぐ県内第2の都市として活況を呈していた。
 第2次大戦後、同鉱山は社名を同和鉱業として再出発を図り、昭和34年の内の岱鉱床、同60年の温川鉱床の発見により鉱山としての命脈を保ってきたが、次第に経営規模を縮小。ついに平成2年、閉山に追い込まれ、約130年続いた鉱山の歴史に幕を下ろした。現在は、小坂製錬所として海外からの輸入鉱石を中心に金属製錬を行っているのみである。
 同鉱山とともに歩んできた小坂町は、同鉱山の全盛時代を物語る小坂鉱山事務所(国重要文化財)や日本最古の木造芝居小屋・康楽館(同)など貴重な産業近代化の歴史遺産を生かしながら、観光振興を柱としたまちづくりを推進。小坂鉱山事務所や康楽館のある通りを明治百年通りとして全国に売り出し、観光客の誘客を図りながら、鉱山で栄えた町としてのイメージアップに努めている。


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明治百年通りに移築復元された小坂鉱山事務所。内部は資料館として一般に公開されている
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日本最古の木造芝居小屋・康楽館。現役の芝居小屋として営業中

2005年08月23日

ふるさと探訪 岩手県石鳥谷町


いまに生きる 南部杜氏の技と心


 岩手県のほぼ中央に位置し、町の中央を北上川が流れる石鳥谷町。国道4号や東北自動車道、東北本線、それに東北新幹線が南北に貫く交通の要所にあるが、古くから人と物資の往来でにぎわったその歴史は好地旧一谷塚、江曽一谷塚などの史跡が物語っている。
 同町は、縄文時代の遺跡が数多く発掘されるなど古くから人々の豊かな営みがあった。前九年の役などの変遷を経て、12世紀の終りには稗貫氏の所領となる。豊臣秀吉の天下統一後、没落した稗貫氏にかわって南部氏が統治し、その支配は明治維新まで続いた。昭和3(1928)年、この地方の中心である好地村は町制をしいて石鳥谷町と改称。30年には、旧石鳥谷町、八幡村、八重畑村、新堀村の1町3村が合併して現在の石鳥谷町が誕生した。
 豊かな歴史と文化が息づく町内には、稗貫氏の菩薩寺でミズバショウが美しい大興寺、稗貫氏に関する重要文書等が保存されている光谷寺、樹齢350年の桜で知られる長善寺、弘法大師の置き忘れた杖が根づき大木になったという伝説が残る「逆ひば」などがある。
 また奥羽山脈を源とする葛丸川渓流は滝、奇岩などが多く、四季を通して美しい景観を見せている。2月14日には「たろし滝」の氷柱の太さをはかり、その年の米の出来、不出来を占う伝統行事が行われる。
 丹波、越後とともに日本三大杜氏に数えられる南部杜氏。その発祥の地として有名な石鳥谷は、良質な米と水に恵まれ、古くから酒造りが盛んだった。藩政時代には、石鳥谷の杜氏が「酒司(さかじこ)」と呼ばれる藩庁公認の杜氏に選ばれ、その酒は南部藩主のご膳酒として盛岡に運ばれた。現在も、その伝統の技と心を受け継いだ杜氏たちが、県内はもとより、北海道から四国まで全国各地、約400軒の酒蔵で活躍している。
 町では、全国的にも珍しい酒文化を生かしたまちづくりを推進しており、その中心となっているのが国道4号沿いにある「南部杜氏の里公園」(道の駅「石鳥谷」)は、国指定重要有形文化財の酒造用具1788点などを展示した歴史民俗資料館、南部杜氏の技と心を紹介する南部杜氏伝承館など、日本の酒造の歴史と文化を知る上で貴重な施設からなり、年間15万人以上が訪れている。
 平成18年1月1日には、花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町の1市3町の合併により発足する新・花巻市(人口10万6300人)の一員として新たな歴史を踏み出す。
 

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国道4号沿いの「南部杜氏の里公園」(道の駅「石鳥谷」)