2006年01月03日

玉山村主婦殺害事件(下)

遅れた遺体の発見

 犯行から2日目の朝を迎えた平成3年12月11日午前8時45分ごろ、マサさんが寝室の布団の上でふだん着のまま頭から血を出して死んでいるのを、次男が発見し、警察に通報した。同居している長男、次男は同じ屋根の下で変わり果てた姿となったマサさんと1日以上一緒にいたことになるが、二人は農作業などの関係で日ごろからマサさんとはすれ違い生活が多く、11日朝に遺体が発見されるまで顔を合わせなくても不審に思わなかったらしい。
 マサさんの寝室は玄関から20畳ほどの板の間を抜けた和室。タンスの前には失血による多量の血痕があり、畳から浸透した血が床板まで達していた。寝室からはナイフなどの凶器は見つからず、争った形跡や寝込みを襲われた様子がないことから、顔見知りの犯行ではないかとみられた。寝室のタンスの引き出しが一カ所、開いたままになっており、預金通帳などが入っていたかばんが無くなっていた。司法解剖の結果、死因は首を切られたことによる失血死と断定された。
 
預金引出伝票の指紋が決め手に

 事件発覚後、高橋は「海外に行く」と言い残して姿をくらました。犯行から1週間ほど経過した12月16日、妻が待つフィリピンを目指し成田空港からマニラ首都圏ケソン市に渡航。約1カ月で日本に戻り、妻と一緒に水沢市内に確保したアパートで暮らすつもりでいたようだ。
 捜査本部は、犯行翌日の12月10日午前、北上市内の銀行2支店から盗まれた預金通帳で現金を引き出した不審な男の割り出しに全力を挙げた。
 高橋が容疑者として浮上する決め手となったのは、銀行の預金引き出し伝票に残された指紋だ。この指紋が、県内で過去に起きた「詐欺」まがいの事件に関係して採取された高橋の指紋と一致することを捜査本部は突き止めた。年が明けて平成4年1月2日までに、盗まれた銀行預金通帳と印鑑を使って現金を引き出したとして有印私文書偽造、詐欺などの疑いで、高橋を全国に指名手配した。
 捜査本部は、これまでにも度々フィリピンに渡航した経験があることから高橋の逃亡先を同国とにらんだ。出入国関係記録を調査しフィリピンに出国したことがほぼ確実と判断し、国際捜査協力に基づき警視庁を通じ同国捜査当局に「国際手配」した。
 フィリピン入管当局などは1月22日、高橋がマニラ首都圏ケソン市でフィリピンの妻と暮らしているところを発見し、27日になって強制送還。マニラ発の日航機が公海上に出たところで高橋は岩手県警捜査員に逮捕された。

控訴せず無期懲役が確定

 強盗殺人、詐欺などの罪に問われた高橋被告に対する判決公判は、4年7月27日、盛岡地裁で開かれ、裁判長は無期懲役を言い渡した。
 論告求刑公判で検察側は「金銭に窮した被告が、全く落ち度のない被害者を周到な計画のもとで殺害したもので、情状酌量の余地は無い」などとし無期懲役を求刑。それに対して弁護側は「被告は当初、怖さから犯行を否認したが、今は犯した罪の大きさを心底から反省し、被害者のめい福を祈る毎日だ。酪農業の失敗がもとで道を誤ることになったが、元々はまじめで気の優しい青年だった」などと寛刑を求めていた。
 被告側は控訴せず、無期懲役が確定し、服役した。
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2005年12月21日

玉山村主婦殺害事件(中)

首にナイフを突き付け脅す

 犯行当日の平成3年12月9日午後1時ごろ、高橋守男=仮名=は、凶器となる登山ナイフを用意し、実家のある県南の村を父親から借りた軽自動車で出発した。

 凶行の現場となった菅原マサさん=仮名=宅は、夫(67)と長男(37)、二男(34)の4人暮らしだったが、夫は県外への出稼ぎで不在だった。高橋は、訪問販売で訪れたことのある菅原家の事情にある程度詳しく、犯行に当たって2人の息子の存在が気になっていた。このため数回の電話で息子の不在を確認した上、同日午後8時半ごろ、菅原さん宅に到着し、外から家の中の様子を用心深くうかがいながら、犯行の時を待った。

 午後9時ごろ、指紋を残さないように軍手をはめた手にナイフを握りしめた高橋は、大胆にも玄関から侵入。応対に出て来たマサさんの首にナイフを突き付け、「金を出せ」と脅した。
 しかし気丈にもマサさんは、現金が置いてある場所をなかなか白状しない。高橋は、首に何度も切りつけながら脅し、「金を出せ」とせき立てた。

 マサさんの首から鮮血が流れ出す。恐怖に顔をひきつらせながら寝室のタンスを示すと、そこに強引に連れていき、タンスの引き出しから通帳などが入ったかばんを取り出させた。するとマサさんが突然騒ぎ出した。
 「人が来た」
 高橋はマサさんから力づくでかばんを奪い取った。
 かばんを取り返そうとマサさんは両手でナイフをつかむなど必死の抵抗を試みたが、ムダだった。逆に押し倒され、首筋を何度も刺された。頚椎(けいつい)に達する深い傷が致命傷となった。

 奪ったかばんを手に高橋は、乗ってきた軽自動車で走り去った。
 途中、車を止めて奪ったかばんの中身を確かめると数通の預金通帳や印鑑などが入っていたが、目当ての現金はなかった。預金通帳や印鑑など中身を抜き取って空っぽになったかばんや凶器の登山ナイフなどを、滝沢村の山林や盛岡市内を流れる北上川に捨てながら、午後11時ごろ、実家のある村に逃げ帰った。
  そして、「事件が発覚すると、銀行に通報され、預金通帳が使えなくなる」ことを恐れながら、夜が明けるのをひたすら待った。
 

銀行にサングラスの不審な男

 翌10日午前9時10分、北上市大通1丁目の岩手銀行北上駅前支店に、白いつなぎ服に白いジャンバー、白い帽子、それにサングラス姿の40歳くらいの男が、開店を待っていたかのように現れた。昨夜、マサさんを殺害して預金通帳を奪った高橋である。

 窓口で応対した行員には「いまの時期、こっちに来て稼いでいる」と話し怪しまれないように平静を装いながら、マサさんを殺害し奪った通帳で175万円を引き出ると、銀行をあとにした。
 
 それから10分後、こんどは同支店から1キロほど離れた同市本町通り2丁目の岩手銀行北上支店に姿を現し、昨夜盗んだ別の通帳で21万円を下ろしあわてた様子で足早に立ち去った。

 銀行で引き出した計196万円を懐に、マニラ市にいるフィリピン人妻を呼び寄せ暮らすためのアパートを水沢市内で契約。さらに同市内の家具販売店で購入したソファなどをそのアパートに運び込んだ。しかし、このアパートで二人が暮らすことはなかった。

 このアパートから実家に帰る途中、盗んだ預金通帳、殺害時に着ていたジャージ、スニカー、軍手などを水沢市と江刺市の境にある桜木橋の上から北上川に投げ捨てた。(つづく)

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2005年12月17日

玉山村主婦殺害事件(上)

酪農青年、狂った人生の歯車

 金欲しさから農家の主婦を殺害し、フィリピン人妻の待つマニラ市に逃亡、国際手配の末逮捕された高橋守男(逮捕当時37)=仮名=。高橋は高校卒業後、岩手県南のある村で酪農をしていたが、飼料代金などの支払いが滞り、負債が膨らんだことから経営を投げ出してしまう。気が優しく純朴な農業青年は、この失敗をきっかけに人生の歯車が狂いはじめる。

 高橋は酪農しか知らない男だったが、高額な報酬にひかれて就職先として選んだのが、強引なセールス活動で知られる健康寝具類の訪問販売。ワゴン車に3、4人の男が乗って農村などの家庭を訪問、羽毛、磁気マットなど高額な商品を売り歩き、収入は売上次第という仕事である。高価な布団一式が売れるごとに破格な報奨金が手に入ることから、借金の返済に迫られていた高橋にはピッタリの転職先だったかもしれない。
 
 牛や自然を相手にした酪農から一転、ハードな訪問販売の世界へ。棲む世界の変わった高橋は、借金の重圧や仕事上のストレスから逃げるように、盛岡の歓楽街へと足を向けるようになる。
 平成2年頃、盛岡のある飲食店に通ううちに、そこで働いていたフィリピン人のホステスと知り合い、エキゾチックでキュートなこの若い女性(当時21)にのめりこんでいく。滞在ビザの関係で半年ごとに母国に帰国しなければならないこの女性のあとを追うように、フィリピンと日本の往復を何度も繰り返すようにもなった。

フィリピン人妻との再出発を夢見て

 しかしこの頃、訪問販売で知り合った顧客から計1000万円もの借金を重ね返さずにいたことが発覚し、仕事を続けていくことができなくなってしまう。
 仕事もないまま、3年10月にはこの女性とフィリピンで結婚。妻となったこのフィリピン女性と日本で再出発しようと高橋は翌11月に単身帰国したものの、3200万円もの借金を抱え、妻に会うためのフィリピンへの渡航費や生活費にも窮するなど身動きできない状態に追い込まれていた。

 「どうにかして金を作らなければ」と思案をめぐらしたが、八方ふさがりの状況のなか、いい考えなどあるわけもない。
 いよいよ追い詰められ脳裏に浮かんだのが、平成2年5月に約50万円の布団一式を即金で購入してくれた、石川啄木のふるさととして全国に知られる岩手県玉山村の裕福な農家の主婦菅原マサさん(当時59)=仮名=の存在である。金欲しさから空き巣に入ることも考えたが、現金の保管場所などが分からず、マサさんを殺害し金を奪うことを思い立った。(つづく)

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2005年11月20日

滝沢村での女性怪死事件

発見された怪死体

 昭和34年3月24日午後3時ごろ岩手郡滝沢村平蔵沢の空家でまぐさの上にうつ伏せになって死んでいる女の変死体が発見された。死因に不審がもたれるところから、盛岡署は他殺と断定し、捜査を開始した。
 死体が発見された空家は四方が畑に囲まれた165平方メートルの一軒家、南方50メートルに大森宇吉さん宅、東方約100メートルに大森子子松宅があり、裏側は沢をへだて小高い山林になっている。空家は盛岡市八幡町100の小向忠蔵さんの所有で、死体発見者の堰合和吉さんが管理を頼まれ、空家の一部を借りてまぐさ置場に使っていた。
 死体は9.9平方メートルのまぐさ置場の奥にうつぶせになり、北側に頭を向け両手をくの字に曲げて倒れていた。着衣はこげ茶の模様編のセーター、メリヤスシャツ、メリヤスのズボン下をはいており、左わき下に濃紺のズボンがくしゃくしゃになっていた。顔は人相が判別できないほど黒く焼けただれ、両手、モモにもやけどがあり、ことに手の指が炭化するほどひどく焼けただれていた。
 死体のそばにあったズボンは下半分がボロボロに焼き切れ、劇薬のようなもので焼いたと推測された。素足だが、付近にははき物が見当たらず、別な場所から運んだものと推定された。特に不審が持たれたのはパンツの中と肌着の中にまぐさが一つかみほど入っており、ズボン下は全く焼けた形跡がないのにモモやカカト付近にヤケドがあるなど、不自然な点が多かった。
 盛岡署は25日、20人の刑事を動員して部落21戸をはじめ村内をしらみつぶしに洗ったが、行方不明の若い女性はなく、また人相着衣に似た女を目撃した村民も現れなかった。同署は、県下各警察者に紹介し、最近の家出人を調査したが該当者はなかった。

不自然な火傷の跡
 
 死体発見現場の綿密な検証によると、現場で殺害された形跡はなく、足の甲に引きずられたような跡が残っていること、ハダシのままであり、付近にははき物がないのことから、他から運んできたものと推定された。さらにまぐさ置場の1メートル四方の窓枠に何か物でこすった跡があり、新しい泥も付着していたことから、女性を窓から押し込んだとの見方も出た。
 最も怪奇な事件と思われる点は、顔面がアゴの一部をのぞきヤケドを負っているのに頭髪がそっくり残っており、セーターも焼けた形跡がなく、モモ、スネなどがヤケドしているのにズボン下が焼けておらず、死後着せたものと思われることだ。
 被害者の身長は152センチ、顔に多くのソバカスがあり、右耳下のアゴに大豆位のホクロがあるのが特徴。年齢は骨の固さなどからみて30歳前後と見られた。
 一方、死因はヤケドは致命傷とは考えられず、心臓内の血液が鮮紅色で流動性を帯びているため、一酸化炭素を吸いこみ酸素を吸収できなくなって窒息死したものと思われるが断定できないという結論に達した。死亡した時間は23日夜から24日未明までの間と推定された。入歯、ムシ歯がなく血液はO型。以上のようなことが解剖から判った。
 またマユ毛は焼けたのではなくカミソリでそってあり、水商売の女という見方も強まった。両側の裏の黒いよごれは土や泥ではなく、汚れた板の間などを歩いて付着したものと推定された。
 
衣類焼却跡を発見

 同部落農業大森米吉さんが同月28日午前11時45分ごろ死体が発見された現場の空地から西北約600メートル離れた開墾畑に刈払いに出かけ、畑の北東のすみにタキ火した跡があるのを発見した。不審に思い灰の中をかき回したところ衣類の焼残りがあったので盛岡署に届け出た。
 盛岡署員が急行して調べたところ、女のトッパーコートと思われるエリの一部と、タキ火の付近に風で飛ばされた2、3の布切れをみつけた。生地は薄ラシャのアヅキ色の水玉模様でほかにエンジ色のソックスの一部とハダ色のネッカチーフの一部もあった。灰の中からは長さ10センチぐらいのガマ口の口金が発見され、100円札が焼けた灰もあった。
 さらに付近を捜したところ、焼跡から6、7メートル離れたとこトウモロコシのカラの下から黒ビニール製の女物サンダルを発見。灰は数日前に焼いたばかりの新しいもので、付近は林と原野ばかりで家がなく、地理を知っている者の仕業と推定される。サンダルはかなりはき古した品で、そう遠いところからサンダルを履いてきたとは思われない。
 たき火の状況からみて女を殺した犯人が衣類や所持品など証拠となる品を周到に焼いたことがうかがえる。サンダルも焦げた形跡があり、捜査本部ではいったん焼こうとしたが火がつかなかったためあきらめてトウモロコシのカラの下に押しこんだと見られた。
 たき火の場所は、死体の発見現場から約1.5キロ離れた鬼越部落に通じる山道のそばで、同開拓地の方から下がってくると、平蔵沢部落の最初の家が死体のあった空地であり、空家に入るまでだれにも見られない地形である。
 このためこれまで考えられていた事件の中心人物が平蔵沢部落内にいるとの見方から鬼越、花平、沼森の各開拓地という線も出ている。いずれにしても着衣の一部や、サンダルなどが発見されたことにより、身元割り出しは容易になると見られ、盛岡署は懸命の聞き込み捜査を続けた。
 それから5日経った4月3日、付近の山を捜索していた盛岡署員は、たき火跡から20メートル離れた林の中で、焼残りのナイロン製パイル織りの女物のエンジ色ソックスとスカーフの布片、スラックスの布片などを発見した。さらに綿密に調べたところ、木の根元に焼けちぢれた髪の毛も落ちてあり、死体を一時置いた形跡もあった。たき火跡からその場所まで点々と焼布がこぼれており、死体を運んだことも明かだった。

謎が謎を生む

 曲がりくねった部落の道、一見普通の農家と見える空家、地理を知らない者が来るはずもない場所。焼け残りの服装の切れ端などから、被害者はショートヘア、銀色模様のサンダル、薄茶のトッパー、エンジのソックス、ハダ色ネッカチーフと想定されるが、村ではザラに見られるスタイルではなく、だれかが目撃したはずだと捜査当局は確信している。
 それにしても行方不明の女であれば1週間以上も過ぎたのでそろそろ身元がわかるはず。あの女ではないかという者についてすでに100人以上調べたが、いずれも所在が確認されている。
 体重45キロの被害者を遠くから運んだものとは考えられず、当時車のワダチもなかった。
 犯行をくらますために、証拠となる着衣や所持品を焼いたものとみられるが、それにつけても死体を山林に捨てず、空家に捨てたのはなぜか。部落内に事件の何かを知っている者がいるに違いないと判断して、盛岡署員が毎日聞き込みしたが、部落民はあまり協力的ではなかった。
 当初は平蔵沢部落の者か村内の者で、簡単に事件は解決するだろうとみられたが、3日たち一週間たっても身元が判らず、難事件の様相を呈してきた。事件現場は道路がこみいっており、空家は普通のカヤぶきの農家で、知らない人は空家とわからないほど。知らない者が行けるところではなく、地理に詳しい者が関係しているに違いないと捜査当局はにらんだ。ヤケドは何によるものか、死因は何か、どこで殺したのだろう、スラックスがボロボロになったのは?など、謎は謎を生んだ。
 
身元不明のまま時効成立

 盛岡署は事件の解決は身元を割ることが先決だとして、スラックス、シャツ、トッパーコートの焼残り布、スカーフの切れ端、サンダルの出所などを追及したが、セーターもサンダルも2、3年前売られた品で製造元までわかったが、どの店でいつ誰に売ったか数量が多くて手掛りにならなかった。滝沢村、盛岡市を洗っても、身元の手掛りになる情報がなく、県警本部はさらに範囲を広げ、手配書15万枚を印刷して県下および全国に配布した。
 この間4月中旬、盛岡市上田のバー女給が似ているというので、色めきたったが、偽名で宇都宮に生活していることがわかり、捜査は振り出しに。盛岡署には似ているという情報が続々と寄せられたが、いずれも人相、着衣、特徴が異なり、次々とはずれていった。
 人相着衣をさらに正確に調べるため、死体を発掘して再調査したり、電気で殺害された可能性もあるため、岩手大学工学部鎌田助教授が死体を検分したり、事件は県民注目の的になったが、苦心の手配書も効果はなかった。また岩手医大細井講師は、ヤケドは生きているうちに高温度の火で焼かれたもので、死因はそのあと凍死したものだと見解を明らかにし、腸内にはコンブと麦飯があったこともわかった。
 県警鑑識課は被害者の指紋をとり、前科者および行政指紋と照合したが、合致するものがなく、死体の顔写真を修正してモンタージュ写真も作製、3万枚を印刷して県下に配った。こうしてあらゆる手段方法で身元割出し捜査が続けられたが、ついに被害者の身元はわからず、数々の謎を残し、昭和49年3月24日午前零時ついに時効が成立した。
 
死因は凍死。18〜20歳の女性
 
 死体の身元は警視庁を通じての家出人捜索でも判明せず、寄せられた603件、502人の情報からも割り出せなかった。38年には被害者の頭がい骨から当時としては科学捜査の先端をゆくスーパーポーズ復顔像を作り、ポスター42.000枚を全国に配布。さらに48年8月には5000枚のポスターを新たに作成、配布したが、被害者の身元発見には至らなかった。
 一方、39年11月やっと死体解剖鑑定書が出たが、それによると▽18〜20歳の女性▽死亡時は空腹▽薬物検出なし▽致命的外傷なし▽ヤケドは炎による▽農婦などの重労働者ではないーなどがわかり、死因は凍死だった。ということは、殺人事件というよりも、女性が何らかの事故に巻き込まれ、瀕死の状態のまま放置されたという可能性も出てきた。死体発見現場のまぐさ小屋に死体を隠し、後で別の場所に運ぶ計画だったのかもしれない。
 この事件の疑問は、やけどそのものが不自然な焼け方であること。当時、現場付近は泥んこ状態で死体は運ばれた可能性が強いこと、しかも同地区には地理的にわかっていなければ入ることができないこと、この女性の目撃者が全くないことーなど、ミステリーじみた点が多い。
 この事件に投入された捜査員は21.000人。被害者の霊は13回忌の47年、現場となった平蔵沢の共同墓地に墓が建立され、そこに眠っている。戒名は「幽心妙香大姉」。

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2005年11月08日

中尊寺・国宝ケマン盗難事件

こつ然と消えた金色堂の国宝

物証乏しく捜査は難航

 奥州藤原三代の栄華をいまに伝える平泉。金蒔絵、極彩色など藤原時代の工芸の粋を集めた金色堂は、わが国の国宝第1号であり、松尾芭蕉の「五月雨の降りのこしてや光堂」の句でも知られる。堂の内外を黒漆で塗り、その上に全て金箔を押し、柱や須弥壇には金銀珠玉をちりばめ極楽浄土をあらわし、 内部中央壇の中には清衡、基衡、秀衡の遺体(ミイラ)と泰衡の首級が納められている。
 この金色堂を舞台に中尊寺全山を揺るがす大事件が発生したのは、昭和27(1952)年10月27日のこと。その日午前10時ごろ、金色堂のトビラを開いた寺僧は一瞬、目を疑った。内陣の仏像などが倒され、内陣長押(なげし)につるしてあった国宝の金銅ケマン(華蔓)4枚と、観音像の宝冠がこつ然と姿を消していたのである。何者かに盗まれたことは明らかだった。
 ケマンは仏を荘厳する花輪で、盗まれたものは縦横とも約30センチ、うちわのような形をした金銅の板である。12世紀初めの作で金属のケマンとして日本最古。藤原時代の特徴である鋤彫技法を用い細部まで精巧に彫り上げた最高傑作といわれる芸術品だ。
 国宝の盗難事件は全国的に大きな反響をよび捜査の行方に関心が高まるなか、警察は仏像から検出された指紋などを手掛かりに必死の捜査を続け、また中尊寺も「犯人逮捕と現物発見者に賞金10万円」という異例の懸賞金により情報の提供を全国に呼びかけた。しかし物証に乏しく犯人に結びつく有力な情報もないまま、1カ月、2カ月と時がたち、一時は迷宮入りを思わせたのである。

古物商グループ3人を逮捕

 ところが、事件発生から半年後の翌年春、東京で盗まれたケマンが発見されたことから、事件は急展開し一気に解決に向かう。4月14日、ある中年の男が東京都台東区にあるK興信所のY所長のもとを訪ね、盗品である国宝ケマン二枚を持ち込んだ。「もし国宝が国外に持ち出されては国家の大きな損失になる」と思ったY氏は17日になって警察に通報し、これが事件解決の端緒となる。
 ケマンを持ち込んだ男というのは、稗貫郡湯本村(現・西和賀町)の木材ブローカーO(53)。Oは21日に逮捕されたが、この日の昼すぎには花巻町(現・花巻市)の古物商M(55)が残るケマン2枚を持ち花巻地区署(現・花巻署)に出頭。それに先立ってMは、捜査が身辺に迫るなか、ケマン2枚を持参し中尊寺を訪れ、「これは中尊寺のものですか」と鑑定を依頼するなど罪を免れるための一芝居を打ったりもしていた。さらにOの自供により、主犯として稗貫郡内川目村(現・大迫町)の古物商KことT(54)が23日になって逮捕された。
 一関地区署(現・一関署)の捜査によると、Tは犯行前日の午後4時半ごろ、観光客にまぎれて金色堂に入り、トビラが閉じるのを待って犯行に及び、翌日朝、トビラが開かれるとともに再び観光客にまぎれ、何くわぬ顔で出ていったという。そのあとTは知り合いのOにケマンの売買を依頼し、Oは買い手を求めて上京した。

容疑を否認しつづけた主犯の男

 事件は盛岡地裁一関支部の公判に付されたが、OとMはあっさり罪状を認めたものの、Tは逮捕以来一貫して否認を続け、Tは自分に不利な証言をするO、Mがをにらみつけ、脅迫的な言葉を投げつけたりもした。検察側は当初からTが盗犯に間違いないとしながらも、なかなか確証がつかずにいた。
 しかし29年5月1日の判決で裁判長はO、Mなどの証言に加えて、Tが何一つアリバイを立証できなかったこと、さらにTが逃げる際に山の中を歩いて顔一面ウルシにかぶれていたことなどから、実行犯と断定した。
 注目の判決は次のように言い渡された。▽T、窃盗、盗品寄蔵、重要文化財保護法違反、懲役4年(求刑同7年)▽O、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)▽M、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)。この判決でOは服役したが、TとMの二人は判決を不服として仙台高裁に控訴。仙台高裁は30年6月13日、Mの控訴を棄却する一方、Tに対しては懲役3年を言い渡した。さらに二人とも上告したが、いずれも上告棄却の判決が下された。
 この事件は中尊寺を大いにあわてさせたが、盗まれたケマン4枚は無傷のまま返り、そのうえ中尊寺の名を全国に知らせるのに役立ったことは皮肉な結果であった。

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2005年10月14日

盛岡集団婦女暴行事件

若い女性を次々と襲う

朝鮮戦争勃発の社会的混乱のなか

 昭和25(1950)年6月25日早朝、北緯38度線をはさんで対峙していた朝鮮人民軍(北)と韓国軍(南)が数カ所で武力衝突し、朝鮮人民軍は敗走する韓国軍を追って南進を開始。3年にわたり朝鮮半島のほぼ全域を戦火に包んだ朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされたのである。
 朝鮮人民軍の圧倒的な優勢のうちに、開戦3日後の6月28日、韓国の首都ソウルが陥落。9月初めには国連、韓国の連合軍が大邱、釜山を含む半島南端の狭い一角に追い詰めらてしまった。太平洋戦争での敗戦からわずかに5年、隣国での戦火の拡大に日本国内は騒然となり、国民の不安を駆り立てた。
 そんな明日をも知れない社会情勢のもと、未成年多数を含む集団による連続婦女暴行事件が盛岡で発生し、市民を恐怖に陥れた。事件は全国に類を見ない凶悪なもので、被害件数は25年7月から10月までの間に警察に届け出があったものだけで23件にも達し、若い女性が夜一人では歩けない状態が続いた。
 犯行の現場となったのは、岩手公園、明治橋際の浮島公園、北上川や中津川の河川敷など市中心部から河南、仙北地区に集中し、夜間デート中の男女や夏まつり帰りの若い女性などが次から次へと襲われた。戦後の混乱に加えての朝鮮戦争勃発という混沌とした時代背景があったとはいえ、常軌を逸した若者たちが夜のまちを支配する異常事態だった。警察に届け出のあった事件の被害者は16歳の少女から既婚の20代の女性まであわせて26人。世間体を気にして告訴をためらった被害者も多かったと見られる。自らの快楽と欲望のために、女性に生涯消えることのない深い心の傷を負わせたこの事件は、決して許されるものではない。

デート中の女性らを集団でレイプ

 犯行グループ摘発は、同年10月3日夜、岩手公園を青年Aさんと散策中のK子さん(21)が二人組の男に脅迫され暴行されそうになった事件が発端となった。この時、Aさんの通報で駆けつけた警察官が、市内の男性M(19)、同K(18)を逮捕。二人は、仙北町の浮島公園での婦女暴行事件の加害者と人相、着衣が似ていることから、被害者の女性に確認してもらったところ、犯人であることが判明。これが端緒となり20歳前後の若者あわせて49人がかかわった数々の集団暴行事件が次々と明らかになり、容疑者が相次いで逮捕された。
 浮島公園の事件とは、市内仙北二丁目にある虚空蔵堂の夏まつりが行われた7月12日夜、まつり帰りに同公園を散歩中のM子さん(20)と連れの青年Bさんが徒党を組んだ男性12人のグループに襲われ、M子さんが半死半生になるほどの暴行を受けるとともに、Bさんも袋だたきにされたというもの。当時、浮島公園は明治橋の少し上流南側の北上川河川敷にあり、市民の憩いの場、デートスポットとしてにぎわっていた。現在、同公園跡地は盛岡の夏の風物詩として知られる伝統行事「舟っこ流し」の会場となっている。城下町の面影を残す盛岡の落ち着いたまちの雰囲気からは、全国を騒がした連続婦女暴行事件が実際にあったとは想像することができない。

盛岡の夜を支配した婦女暴行団

 この浮島公園事件を皮切りに、若者らによる婦女暴行事件が立て続けに発生し、その手口も次第に凶悪化させていった。まかり間違えば殺人事件に発展しかねないほどの凶暴性で、市民をりつ然とさせた。浮島公園事件から3日後の7月15日午後10時ごろ、K子さん(19)が市内大宮の神社での夏まつりから一人で帰宅途中、8人組の男に襲われ、近くの本宮第二変電所前で暴行を受けた。さらにそれから4日後の19日夜には、市内鉈屋町の市立病院付近で連れの青年と雑談していたY子さん(16)が拉致され、付近の北上川河原で若者10人から暴行された。
 そして22日午後10時ごろ、N子さん(22)は青年Cさんと市内清水町の中津川杉土手を散歩していたところ、突然二人組の男に襲われたが、この時は逆に二人組がCさんに殴打され逃亡し、事なきを得た。それから1時間後の午後11時ごろ、こんどは市内下太田の太田橋付近の雫石川河原を歩いていたA子さん(23)と連れの青年Dさんが男5人に襲われる事件が起きた。犯人グループはDさんに殴るけるの暴行を加えたうえ川に投げ入れ、そのあとA子さんに襲いかかった。
 その後も若い女性への暴行事件は続いた。8月12日午後10時ごろ、岩手公園本丸付近を男性と散歩していたS子さん(20)が暴行を受けたほか、21日夜には市内東仙北の北上川河川敷を青年Eさんと歩いていたR子さん(17)が男性8人のグループに襲われ、犯人たちはEさんをこん棒で殴って失神させ北上川にほうり込んむとともに、R子さんに暴行を加えた。また9月8日午後11時ごろには、市内仙北町の駒形神社のまつりから帰宅途中のA子さん(18)、H子さん(18)が7人組の男に襲われる事件が発生。その後も事件はいっこうに止まなかった。
 
犯人グループに法の裁き
 
 世間を騒がせた犯行グループの大部分は未成年者で、盛岡市南部の仙北町や本宮などに住んでいる若者が多く、中には岩手大学生4人も含まれていた。狂った獣のように女性に牙をむく若者たち、主犯格の男は一人で8件もの事件にかかわるなど悪質だった。
 全国的にも注目された前代未聞の集団暴行事件の判決は、26年1月31日、盛岡地裁で行われ、主犯格の男性に懲役8年のほか、15人に懲役6年から2年、未成年者13人には主犯格の19歳の男性に懲役5〜10年を最高に懲役2年〜4年、同5年〜6年の不定期刑が言い渡された。なお未成年の岩手大学生ら3人には執行猶予5年の温情判決が下された。戦後の混乱が続き治安が安定していなかった時代だったにせよ、若い女性が安心して外出できない夜の無法状態が4カ月も続いたこの事件のことを考えると、いまの日本はずいぶん安全になったものだと関心してしまう。


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2005年09月10日

東和町小学生殺害事件

犯人は顔見知りの高校生

 下校途中の中学3年生がふざけてカバンをけった同級生をナイフで刺殺(2月4日、埼玉県所沢市)、中学生ら少年グループが浮浪者を襲い殺す(2月5日、神奈川県横浜市)など少年による凶悪犯罪が続いた昭和58年。この年の4月には、岩手県中央部の東和町で、高校生が小学生を殺害するという衝撃的な事件が起きた。事件のあった東和町は、宮沢賢治を生んだ花巻市に隣接し、猿ケ石川流域を中心に豊かな穀倉地帯が広がる町。民話のふるさととして全国に知られる遠野市へも車で30分ほどの距離にある。
 この事件が発生した当時、東和町は町議会選挙の真っ最中で、桜が咲き始めた町内を拡声器で候補者の名前を連呼しながら選挙カーが走り回っていた。4月21日午後4時55分ごろ、同町南成島の県道沿いにある廃止されたバス停待合室(二畳ほどの粗末な小屋)の中で東和町立成島小学校1年の熊谷修ちゃん(6つ)が、あお向けで頭から血を流し倒れているのを、たまたま通りかかった選挙カーの候補者らが見つけ、地元の花巻署に通報。警察官が現場に駆け付けるとともに、救急車も現場に急行。修ちゃんは、救急車で県立東和病院に運ばれたが、そこで死亡が確認された。
 修ちゃんが発見された現場は町のほぼ中心部にある町役場から東へ約3・5キロの地点。昼間でもほとんど人通りのない閑散とした水田地帯の一角にあり、一番近くの民家でも約80メートル離れている。修ちゃんの自宅は現場から南へ300メートル坂道を登った所にあり、同署は当初、下校途中のひき逃げ事件として緊急配備を敷いた。
 ところが現場から約200メートル北にある猿ケ石川の矢崎橋の上に県立東和高校一年生A(15)のカバンと帽子が落ちているのを、緊急配備中の警察官が発見。カバンの持ち主であるAの行方を捜していたところ、午後7時ちょっと前、現場から約4キロ離れた東和警察官派出所近くで自転車に乗っていた、高校一年生としては大柄なAを見つけた。警察官が事情を聴くと、「ひもで首を絞めた」と犯行を自供したので、殺人の疑いで緊急逮捕した。

愛用の自転車を壊され逆上

 Aはどうして小学生を殺したのか。犯行当日の行動をたどってみよう。犯行があった21日朝、Aはいつも通り朝7時に起床し、カバンやクラブ活動で使う柔道着を持って自転車で家を出た。この時は特に変わった様子はなかったという。しかし家を出たものの、学校へは行かず、犯行現場となったバス停待合室付近を流れる猿ケ石川の水門付近でブラブラして暇をつぶしていた。家族に内緒で学校を無断欠席した後ろめたさを感じながら、時間が過ぎるのをただ待っていたのである。
 Aが学校を休んだのは、友人と自宅近くの空家に侵入したことで、事件前日の20日、先生から注意されたうえ、警察の取り調べを受けたという噂が広がり、学校に行くのが嫌になった、からだ。
 夕方近く、矢崎橋の上から、魚釣りをしている子供たちをぽんやりと眺めていると、ピカピカのランドセルを背負い下校途中の修ちゃんが通りかかった。時間は午後4時前のことである。家が同じ方向だったので、Aは高校入学祝いに親から買ってもらった新品の自転車を押しながら修ちゃんと家路につき、途中、殺害現場となったバス停待合室に立ち寄った。
 無断欠席を家族から叱責されることへの恐怖から、家がとても遠くに感じられ、すんなりと家に帰る気分ではなかったのかもしれない。Aの証言によると、犯行現場となった待合室前に自転車を置くと、修ちゃんはしきりにこの自転車に乗りたがった。それを断ると、修ちゃんは自転車をけって倒した、という。大切にしていた自慢の12段変速付ドロップハンドルのスポーツ車を倒され、そのうえランプ用発電機の泥よけを壊されたことで、Aは頭にカッと血がのぼってしまう。
 「何でやる。やめろ」
 Aは血相を変えて、怒鳴りつけた。しかし、修ちゃんは謝らず、待合室内のイスにふてくされたように横になった。これでAは逆上し、修ちゃんの頭を踏みつけたうえ、持っていた柔道着のズボンのヒモで首を絞めた。さらにグッタリした修ちゃんの首の後ろを、長さ30センチほどの"金串"様のもので5回ほど突いて"とどめ"を刺したのである。
 修ちゃんを殺害した後、Aは矢崎橋の上で出会った友人に「警察に行くのでカバンと帽子を自宅に持って行ってくれ」と頼んだが、この友人はカバンと帽子を橋の上に置いたまま帰宅し、それを緊急配備中の捜査員が発見。Aは現場周辺を自転車で走り回った後、事件を届け出ようと派出所に向かいウロウロしているところを見つかった。

マンガの残酷シーンをまねて"とどめ"を刺す

 "とどめ"を刺したことについてAは、「週刊少年ジャンプ連載の『ブラックエンジェル』のまねをした」と取り調べの中で供述。この劇画は、ふだんはおとなしく気が優しい主人公の青年が、悪人を見つけると「地獄に落ちろ」のセリフとともに愛用の自転車のスポークで首をひと突きにして殺すというストーリーだ。
 主人公の自転車はドロップハンドルのスポーツ車。この主人公にあこがれていたAが乗り回していた自転車も同じタイプ。修ちゃん殺害の凶器に使われた"金串"は、自宅の物置にあった銅鉄製の棒の先をグレンダーで鋭く研いたもので、カバンに入れて持ち歩いていた。劇画の主人公に成り切っていたのである。
 Aは祖母と両親、兄、妹の6人家族。無口でおっとりした性格で友人からからかわれることが多かったと、当時、学校関係者がマスコミの取材に答えて話していた。小学校時代に事故で頭を打ち、その後遺症で時々頭痛を患い、中学校やクラブを休むことがあったとも言われる。
 県内はもとより、全国に大きな衝撃を与えたこの事件で、盛岡家庭裁判所は同年5月30日、Aの医療少年院送致を決めた。
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2005年08月27日

岩手の事件簿 種市一家5人惨殺事件


岩手・青森県境の港町が惨劇の舞台に



逃げまどう子供にも狂気の刃


 岩手県種市町は青森県境に近い太平洋沿岸の町。静かな盆入りの朝を迎えるはずのこの町で、血も凍るような惨劇が起きた。ぐっすり寝ていた妻と4人の子供たちに狂気の刃を降りおろす父親。逃げまどう幼い子供にも容赦なく襲いかかった。室内には血が飛び散り、5人の遺体がむごたらしく放置された。血染めの布団と異臭に、通報で駆けつけたベテラン捜査員ですら顔をそむけ、言葉を失った。
 事件が発覚したのは、凶行に及んだ父親からの電話だった。平成元年8月13日午前5時20分ごろ、九戸郡種市町第23地割39、無職・加●(門のなかに亀)山秀武=かくちやま・ひでたけ=(42)が自宅近くの公衆電話から「自宅で妻と子供を殺した」と110番した。久慈署員が現場に急行し5人の惨殺死体を発見、公衆電話ボックスにいた憔悴し切った加●山を逮捕した。
 惨劇の舞台となった加●山宅は、JR八戸線種市駅から約200メートル西側の住宅地の一角。殺されたのは、妻静子さん(37)、長女寿子さん(14)=町立種市中3年、長男武士(たけし)君(13)=同中1年、2男猛(たける)君(11)=町立種市小5年、3男真也ちゃん(6つ)=町立種市保属園=の妻子5人。静子さんと真也ちゃんは奥の8畳寝室の布団の上で頭を並べ、布団を半分かけられた状態で死んでいた。隣室の8畳間では、寿子さんら3人の子供が布団の上などで血まみれになって倒れ、静子さんのそばには血の付いた刃渡り約15センチの漁業用ナイフ(通称・マキリ)が布をかけられ落ちていた。


子育て上手の働き者の妻


 加●山は種市中を卒業後、土木作業員や漁船員をしていたが定職には就かなかった。加●山と静子さんは結婚後間もない昭和49年5月、凶行の現場となった家に移り住んだ。出稼ぎや漁船員として働く夫は留守がちで、子供の世話は静子さんが一手に担い、しかも不安定な夫の収入を内職などで補い家計を支えていた。洋服の内職をして注文を取り、婦人服やセーラー服を仕立てる働き者の奥さんとして近所でも評判だったという。平成元年7月半ば、イカ釣り漁から帰った後、加●山は体調を崩し自宅でぶらぶらしていたが、そのかたわらで静子さんは、内職の納期になんとか間にあわせようと、汗を流しながら懸命にミシンを踏み続けていた。
 生活は苦しかったが、子供たちはすくすくと育っていた。種市中3年の長女寿子さんは来春の高校進学を控え、夏休み前に母の静子さんと担任教師を交えた三者面談をしたばかり。「できれば八戸の普通高校に行きたい」と意欲を見せ、夏休み明けの実力テストを目標に頑張っていた。長男武士君はバスケットボール部の練習が大好きな活発な中学生。種市小5年の2男猛君は、理科が得意で草花が好きな気持ちの優しい子供で、友達からは昆虫博士と呼ばれていた。三男の真也ちゃんは今春種市保育園に入ったばかりで、9月の運動会を楽しみにしていた。


生活苦から口論、離婚話に逆上


 小さな借家に暮らす加●山一家6人は、子ぼんのうな父、働き者の母、それに健やかに育つ子供たちにも恵まれ、近所の人の目には円満な家庭に映っていたのだが・・・。
 だが内実は違った。生活苦から夫婦の間での口論が絶えず、離婚話も取り沙汰されていた。静子さんが真也ちゃんを連れて1カ月ほど八戸の実家に帰ったこともあった。静子さんが離婚を決意したのは、船員だった加●山が無断で船を降りたうえ、定職にもつかず、そんな生活態度を注意すると、暴力を振るわれることがしばしばあったからだ。
 虚勢を張っていても小心者の加●山にとって、静子さんが子供4人を連れて八戸市の実家に帰るのではないか、という不安が頭から離れなかった。
 犯行の前夜、加●山はいつものように自宅でウイスキーを飲み出した。妻の静子さんは、稼ぎもないのに酒ばかりのんでいる夫にいい顔はしない。静子さんが離婚の話を切り出すると、激しい口論となった。夫との口けんかに嫌気がさした静子さんは口論の途中で、寝室に引きあげてしまった。一人残された加●山は面白くない。それからもウイスキーを飲み続け、そのままふて寝した。9日未明、目を覚まして床に入ろうとしたら、自分のひじと隣の布団に寝ている静子さんのひじが当たるなど険悪な態度を取られたことに逆上、さらに日本酒7合(約1・26リットル)をラッパ飲みした。
 「自分一人だけが残されるなら、みんなを道連れにして死んでやる」
 酒をあおりブレーキの利かなくなった暴力的な感情は、坂を転げ落ちるように暴走を始めた。これまで自分を支えてきた妻のこと、可愛い子供たちの将来のことなどを冷静に考えられる冷静さはすでに失われていた。
 午前5時ごろ、鬼のような形相をした加●山の手にはマキリと呼ばれる鋭い漁業用ナイフが握られていた。
 静子さんと4人の子供とものどに切りつけ殺害。血ふ造きがふすま、天井まで飛び散った。瞬く間に布団は血の海に。静子さんはともかく、4人の子供は何も知らずにぐっすり寝ていたところを、非情にも襲われた。殺害された5人には抵抗した形跡はなかった。ただ2男猛君の首に切りつけた際、目を覚まし逃げ出そうとした長男武士君に背後から切りつけ再び頚部を刺した。必死で逃げ回った猛君の血が台所や居間の床などに付着していた。


死刑判決の加●山、上告中に病死


 加●山は犯行後、自宅にカギをかけ、遺体を放置したまま、近くの山林などをあてもなくさまよった。首をつるなど自殺しようとしたが死に切れなくて、4日後に自首した。
 殺人罪に問われた加●山被告の判決公判は、2年11月15日に盛岡地裁で行われた。守屋克彦裁判長は犯行当時の加●山被告の精神状態について「心神耗弱状態とはいえず、責任能力は問える」と弁護側の反論を退け「犯行は凶悪残忍なもので動機に同情の余地はない」と断罪する一方で、「犯行は被告が自殺を考えた上での無理心中であり、反社会性の強い強盗殺人などとは類型を異にする。自首しており、深く反省している」と情状理由を述べ、死刑の求刑に対し、無期懲役を言い渡した。
 しかし平成4年6月4日、仙台高裁で行われた控訴審判決では、渡辺達夫裁判長が「被告人に尽くして明るい家庭を築こうとしながら理不尽に殺された妻・静子さんの心情はあまりに不びん。瞬時に一命を奪われた子供たちの無念さは察するに余りある」などと断じて、一審判決を破棄し、求刑通り死刑を宣告した。
 加●山はただちに最高裁に上告したが、同年10月6日に体調を崩し、入院先の仙台市の国立仙台病院で同月16日午後、自分が手にかけて死なせた妻や4人の子の後を追うように静かに息を引きとった。死因はくも膜下出血。自分が犯した罪の深さを悔やまない日はなかった。妻子5人殺害から3年3カ月、加●山の心には、家族との楽しかった思い出、妻の顔、子どもたちの顔が、走馬燈のように一つまた一つと浮かんでは消えていった。

 
 
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2005年08月21日

岩手の事件簿 見前村のおヨネ夫殺し事件


流行唄にもなった明治の不倫殺人



闇夜を切り裂く女の悲鳴


 明治の末期、若い美貌の人妻が年下の愛人と共謀し、律儀で働き者と評判の夫を殺すという衝撃的な事件が起きた。テレビのワイドショーや週刊誌のない時代にあって、この「おヨネ庄吉夫殺し事件」はセンセーショナルな不倫殺人として社会の関心を集め、当時流行唄にまでなった。
 明治天皇の崩御からまだ日が浅い大正元(1912)年9月3日午前1時半ころ、紫波郡見前村大字三本柳(現在の盛岡市三本柳)の飲食店兼魚行商の吉田三治郎(当時34)方から聞こえてくる
 「大変だ。早く来てけれ」
 という女のか細い悲鳴に、隣家の住人はとび起き、すかさず同家に駆けつけた。
 暗がりの中、マッチの明かりをたよりに勝手の戸を開けると、中には男が血まみれで横たわり息絶えていた。事の重大さに気付いた住人は、大声で近所の人達を呼び集め、恐る恐る室内に足を踏み入れた。死んでいた男は主人の三治郎で、さらに勝手につながる奥の座敷には、裸のまま手足を縛られ猿ぐつわをされた妻のヨネ(当時24)が蚊帳にくるまり布団に横たわっていた。
 三治郎の布団にはおびただしい血が流れ、ランプや戸棚にまで血ふぶきが飛び散り、その惨状は目を覆うばかり。鋭利な刃物でのどを切られた三治郎は勝手まで逃げたものの、そこで力尽きて絶命したらしい。
「寝ていたら、覆面をした強盗に襲われた」
 というヨネの話を裏付けるように、タンスの中が荒らされていたのだが・・・。

冷え切った夫婦関係

 殺害現場は国道に面した飲食店兼住宅。主人の三治郎は主に魚の行商に従事し、妻のヨネは家に居て飲食物や雑貨、たばこなどを販売。夏になると、店先に氷水の屋台を出し繁盛していた。美しく男好きのするヨネを目当てに足しげく店に通う男も多かったらしい。
 犠牲となった三治郎は、7年前に父親が亡くなった後、弟妹の面倒を見ながら盛岡市内で生活していたが、思うように生活ができなくなり、やむなく一家は離散。三治郎は八戸地方にある酒造業の下働きの出稼ぎに行き、そこで無我夢中で働き小金を貯め、それから見前村三本柳に住む叔母をたよって現在地に移り住んだ。持ち前の律儀な性格で、家業である魚の行商に精進し、多少の蓄財もあったようだ。また青年団員として地域の信望も篤く、5年前には三本柳の叔母の娘であるヨネと結婚したが、子供はいなかった。
 ヨネは、15歳で他家に嫁いだが離婚し、18歳の時いとこである三治郎の妻となった。家業は順調でなに不自由のない生活のように見えたが、夫婦の間にはいざこざが絶えなかった。村でも評判の美人だったヨネは結婚後も村の若者との関係がたびたび噂になり、三治郎が再三注意したにもかかわらず行動はいっこうに収まらず、むしろ火に油を注ぐ形でエスカレート。また三治郎が妻ヨネを虐待していたという話もあり、そんなことで最近は夫婦の仲は決定的に悪化し、離婚沙汰にまで発展していく。
 
妻を縛って夫を殺す

 事件前日の2日、その日の行商を終え夕方帰宅した三治郎は、それが最後の晩酌になるとも知らず、売上金を勘定しながら妻を相手に2、3本の酒を飲み、夕食を食べていた。いつになく愛想よくヨネが酌をしてくれるので、三治郎は上機嫌だった。行商の疲れにアルコールの酔いも手伝って、三治郎はほどなく床に入った。寝息を立て熟睡する三治郎の横で、ヨネはまんじりともしないで床についていた。
 その時、外には雨戸に身を張りつけて室内の様子をうかがう一人の男がいた。ヨネと共謀し三治郎殺しを画策した紫波郡大字西見前の農業長澤庄吉(当時21)で、短刀をヨネに渡したのもこの男である。
 二人が床に入ってからどこくらい時間が過ぎたのだろうか。闇に包まれた静寂の中で、おヨネの胸には夫として苦楽を共にしてきた三治郎を殺すのはしのびないという思いがこみ上げていた。「何事もなくこのまま夜が明けてくれれば」と思っていたかも知れない。
 しかしそれを許さなかったのは、今や遅しとヨネの決行を待つ庄吉の存在である。ためらっていたヨネは心を鬼にして、敷ふとんの下に隠していた短刀を取り出すと、庄吉から教えられた方法通りに、刃先を外側に向け、これを逆手に握り、三治郎の背後側面より咽喉部に一刀を加え、気管支と左右頚動脈を切断。その瞬間、血吹雪があたり一面に飛び散った。
 庄吉は、この時を今かいまかと、雨戸の外で息を殺して待っていたのだ。三治郎はもがき苦しみながら勝手の上がり段まで這い出したものの力尽きた。出血多量で即死状態だった。
 すぐさま庄吉は室内に入り、強盗を装いタンスの中を荒らし、ヨネを手際よく縛り上げた。そして、声をあげて隣家に助けを求めるようヨネに指図。その悲鳴を聞きつけて隣家の住人が同家の勝手口に立った時には、すでに庄吉は立ち去った後だった。

凶器の短刀発見が決め手に

 ヨネと庄吉とは1年ほど前から愛人関係にあり、将来夫婦になることを約束し、誓約書までかわしていた。夫が地方への行商で留守がちなことをいいことに、二人は盛岡市内の旅館などで逢瀬を楽しんでいる。
 この年の4月には、夫が不在中の留守宅で密会していたところを、予定より早く帰宅した三治郎に見つかり、厳しく問い詰められたということもあった。二人が新しい生活を始めるためには三治郎の存在は邪魔だったし、三治郎に掛けられた生命保険も魅力的に映ったかも知れない。
 二人は共謀し、最初毒殺することを計画し毒草を採取したが、その計画は頓挫。その後庄吉は盛岡市内で短刀を買い求めヨネに渡し寝ている間に刺し殺すことを指示した。当初8月26日に殺害を計画、庄吉は屋外で"その時"を待ったが、ヨネは連れ添った夫を殺すのがしのびなく犯行を躊躇し、その日は何事もなく夜が明けた。
 「短刀に錆があるので、殺せなかった」
 とヨネは庄吉に苦し紛れの言い訳をした。
 事件の捜査は「覆面をした強盗に襲われた」というヨネの証言にもかかわらず、金品が盗まれていないことから、怨恨か痴情によるものと見られた。しかし三治郎には他人から恨みを買うようなことがなく、そこで痴情関係に捜査は絞られていく。
 またヨネの証言には辻褄の合わないことも多く、そこでヨネの身辺を洗うと庄吉と愛人関係にあって夫婦の間も冷え切っていたことが判明。同家前の小川からは凶行に使われた短刀が発見され、さらに庄吉にこの短刀を売った店員の証言も得られた。ヨネは素直に犯行を自供したが、一方の庄吉は
 「短刀を買って渡したこと、犯行が行われた時に戸外にいたこと、強盗を装ったことは認めるが、殺害をおヨネと共謀したこともなければ、殺害の方法を教えたこともない」
 と最後まで言い逃れを続けた。
 世間の注目を集めたこの事件は、大正元年10月14日、傍聴席に入り切らないほど大勢の人が詰め掛ける中、盛岡地方裁判所でヨネ、庄吉に死刑という判決が言い渡された。二人は判決後、宮城控訴院に控訴したが棄却となり、さらに大審院に上告したものの、それも棄却となって、死刑が確定。大正2年12月25日死刑が執行された。

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