数々の名刹が並び寺町として親しまれてきた大慈寺町、盛岡城下にあって物資交易の要所として栄えた惣門付近、馬検場や旧盛岡劇場があった新馬町(現松尾町)。城下町としての風情を残し、歴史の重みが息吹く町並からは、豊かな歴史と文化に彩られた潤いと落ち着きが感じられる。

下町の風情を残す寺の下
物資交易の中心として活気、惣門付近
藩政時代、城下町盛岡の南の玄関口として活気を呈した惣門界わい(現在の南大通二丁目、三丁目)。北上川船運の起点である新山河岸に近く、また奥州、釜石、宮古街道などが通る交通の要だったことから、この要所を警護するために「惣門」が建てられ、一日二回の時鐘とともに門が開閉されたという。南大通二丁目の木津屋本店の近くの道には「盛岡城整備惣門遺址」の石碑が残り、当時の様子を伝えている。
また惣門付近一帯は、物資交易の中心地として、糸屋、木津屋など数多くの豪商が軒を連ね、盛岡城下の中で最もにぎわいを見せていた。江戸時代の町屋の面影を残す糸屋(中村家住宅)の建物は、貴重な歴史的建造物として国の重要文化財に指定されており、市内愛宕町の盛岡中央公民館の敷地内で大切に保存されている。
南大通三丁目の円光寺は、盛岡市出身で戦前、海軍大将、首相などを務めた米内光政の墓があることで知られる。閑静な境内のなかには、市指定天然記念物に指定されている樹齢300年の夫婦桂が参拝者を静かに見守っている。

盛岡城整備惣門遺址の石碑と惣門付近
名刹が並ぶ寺町・大慈寺界わい
鉈屋町から大慈寺に通じる通りは「寺の下」と呼ばれ、平民宰相として活躍した原敬の墓所のある大慈寺や祇陀寺をはじめ、周辺には永泉寺、久昌寺、長松院、千手院、臨江庵など数々の名刹が並び、藩政時代から続く歴史ある寺町として市民に親しまれてきた。
大慈寺は、南部藩主の姫君が帰依した由緒と格式ある寺だったが、明治17(1884)年の大火で類焼し全焼。その後、原敬の援助によって同38年、宇治の万福寺を模した楼門形式の山門や本堂、車裏などが新築された。
大慈寺界わいはかつて北上川の川筋であったことから湧き水が豊富で、その清水を、木管を通して引き共同井戸の水源としたのが、大慈寺そばの青龍水と鉈屋町の大慈清水である。
水道がまだ普及しない頃は、人々が朝夕に集まり格好の社交場となっていた。いまでもこの貴重な共同井戸は、用水組合により大切に管理されており、この清冽な水を求めて町内の人たちが足を運ぶとともに、わざわざ遠くから車や自転車で汲みに来る人も絶えない。この界わいのそば屋や豆腐屋はこの水を商売に利用しており、「そばも豆腐も盛岡一うまい」と地元の人たちが誇らしげに語る。
良質の水の湧き出る所では、うまい酒が造られるといわれるが、この地も例外ではなく、県を代表する酒造メーカーのあさ開が明治4年の創業以来脈々とこの地において酒造りを続けているほか、明治5年創業の老舗岩手川も鉈屋町に醸造工場を持つ。

大慈寺の青龍水
全国の馬産関係者でにぎわった馬検場
古くから名馬の産地として知られていた岩手県。特に藩政時代には、南部馬の産地として名声を博した。盛岡城下で行われる毎年秋の馬市には、藩内はもとより全国から多くの馬産関係者が集まりにぎわった。この馬市が開かれたのが当時の馬町(現在の清水町、肴町)であり、明治になってからも管制の馬検場を中心として昔ながらの馬市風景が繰り広げられたという。
馬産地岩手の象徴である馬検場が、新馬町(現在の松尾町)に移転して、さらに規模を拡大したのは明治45年のこと。以来、全国から馬産関係者を集めての馬市のにぎわいは、戦後まで続いた。跡地にひっそりと残る馬検場の建物からは、時が止まったかのようにいまでもセリ市の威勢の良いかけ声が聞こえてきそうだ。
旧盛岡劇場は、当時の地元有志の出資により松尾町に建設され、大正2年に開館。木造三階建てのこの劇場は、盛岡に過ぎたるものといわれるほど立派な建築物で、中央の歌舞伎、演劇などが上演され、盛岡の文化の殿堂として多くの市民に愛された。しかし老朽化に伴って取り壊され、その跡地には、近代的な盛岡劇場・河南公民館が建っている。

馬産地岩手の歴史を物語る馬検場だった建物

