港を中心に産業、文化の花開く
藩政時代、能代の港町は秋田杉や鉱産物などの積み出し港としてにぎわい、明治以降は木材産業が市の発展を牽引した。戦後、二度の大火を教訓に火災に強いまちづくりが進んだ。全国優勝の名門・能代工業高等学校を擁するバスケのまちとしても全国に知られる。
戦国大名・安東氏の拠点となった桧山城
能代市は、能代港とともに発展を遂げたまちである。能代港の名は、古くから文献に登場するなど、日本海沿岸で重要な位置を占める港であったことがうかがえる。
南北朝時代、津軽に本拠を持つ安東氏が山本、南秋田、男鹿方面に進出し、浅利氏などほかの有力豪族と対立抗争を繰り返したが、次第に戦国大名としての地位を確立。その後、明応4(1495)年、桧山(能代市)に城を築き本拠とした桧山安東氏、秋田郡を支配し土崎湊(秋田市)の城を拠点とした湊安東氏に分かれ争っていたが、愛季の時代になって安東氏(後の秋田氏)に統一された
弘治2(1556)年、愛季は、米代川の河口に北国船による物資の交易拠点を築こうと、能代湊の町づくりに着手。家臣の清水治郎兵衛の統治のもと、着々とまちづくりは行われ、拠点性を高めていった。特に米代川上流から切り出される秋田杉や阿仁などの鉱山から産出される金、鉛などの鉱産物、米、大豆などの農産物の、京都など関西方面への積み出し港として活況を呈するようになる。
関ヶ原の合戦(1600年)の後、徳川幕府によって秋田氏は常陸(茨城県)の宍戸に国替えとなり、それに代わって常陸の佐竹氏が秋田六郡20万石を領有することとなった。
大洪水と大地震を経て能代へと改名
新しい領主となった佐竹氏は、新田開発や鉱山開発などに力を注いだことから、秋田杉、米、鉱産物の一大集散地であり積み出し港、日本海交易の重要な港として能代はますますにぎわいを増し、それに伴って町も規模を拡大しながら発展していった。
「東遊雑記」には、天明8(1788)年の能代の様子について「1400軒の大概のよい町で、北国、九州、大坂の廻船も多数入津し、商店多く豪家があり」と記載されている。
古くから能代は「野代」という地名で表記されていたが、元禄5(1692)年の米代川大洪水、同7年の死者300人、家屋倒壊1400の大地震、宝永元(1704)年の死者72人の地震と立て続けに災害に見舞われたことから、「このままでは街が代わって野になりかねぬ」という危機感から、「能く代る」と「能代」へと期待を込めて改名した。

世界自然遺産の白神山地を望むことができる能代港のはまなす展望台
飛砂から守る広大な砂防林「風の松原」
能代地方は、海岸からの飛砂に悩まされてきた。現在の能代市は、幅1キロ、延長14キロの広大な黒松林「風の松原」によって守られているが、この防砂林の植林に着手したのは正徳3(1713)年のこと。町人の越前屋久右衛門と越後屋太郎右衛門が、後谷地に4000本の松苗を植えたのが始まりである。最初は何度も失敗を繰り返したが、植林した松苗を保護する風よけの垣根を作り替えるなど工夫を重ねてやっと成功にこぎつけた。
こうした先人の防砂林づくりに対する情熱は、子孫や白坂新九郎、鈴木助七郎ら町人に受け継がれ、植林の面積を拡大し、80年間で30万本が植えられたという。さら藩でも植林に力を注ぎ、賀藤景林らがその任にあたった。特に景林は文政5(1822)年から、般若野を中心に77万本の松を植え、そうした功績は景林という地名と景林神社に名を残す。父の偉業を継承した景栞も、寛永6(1853)年までに能代浜に30万本の黒松を植えている。
豊富な秋田杉を活用し「木都能代」を目指す
明治22(1889)年の町村制施行に伴って、能代港は能代港町となった。当時、町の発展を担ったのは木材産業で、秋田杉の利用、開発による産業振興を目指す井坂直幹が機械製材を導入し、明治40年秋田木材株式会社(秋木)を創立。秋木の創業に刺激を受けて、大小の製材工場が続々と建設されるとともに、木材加工業の発達も加わって、「木都能代」が誕生した。
昭和15年、能代港町が東雲(しののめ)村、榊村を合併し能代市が成立。人口は3万8千人。秋田市に次いで秋田県で二番目の市の誕生である。17年に扇淵村、30年には、農工商一体の文化産業都市建設を目指し檜山、浅内、鶴形、常盤の1町3村、32年には峰浜村の一部を編入し、現在の市域となった。
能代の木材産業は、特に第一次大戦中は好景気に湧いたが、その後は不況となり第二次大戦を迎えた。しかし戦後は、復興に伴う旺盛な木材需要から再び活気を取り戻し、昭和30年代、40年代の住宅ブームでも売り上げを伸ばした。
防災都市づくりと港湾整備を積極的に
昭和24年、32年の大火では、市街中心部の大部分にあたる110万平方メートルを焼失。約4千世帯が焼け出され、被害総額は70億円に達した。この大火を教訓として市は、「焼けない明るいまちづくり」を目指し、防災を重視したまちづくりを推進。大規模な都市計画、土地区画整理事業を実施し、道路網の整備拡幅、緑地帯の造成、住宅街、防火帯商店街の建設などに取り組んだ。
今日の能代港は、戦後、米代川の改修とともに整備がはじまり、昭和48年に待望の5千トン岸壁が完成し、翌49年に木材輸入港として開港。55年には1万5千トン岸壁も完成した。
また石炭火力としては日本最大の能代火力発電所の誘致が実現したことから、56年、エネルギー港湾としての位置づけとともに重要港湾としての政令指定を受け、6万トン岸壁建設計画が決定された。
平成13年には4万トン岸壁の擁する能代港多目的国際ターミナルが完成し、大型貨物船の入港が可能となり、それまで青森、秋田、酒田等の港に陸揚げされてから能代に陸送されていた輸入木材の直接の陸揚げによってコストの大幅な削減が期待された。

東北電力の能代火力発電所
バスケのまちづくりで交流拡大
能代工業高等学校バスケット部は、昭和42年埼玉国体での初優勝を皮切りに全国優勝50回以上を数える名門。インターハイ7連覇、3年連続三冠など偉業を達成し、高校男子バスケットで不滅の金字塔を打ち立てている。
能代市では、こうした同校バスケット部の活躍を讃えるとともに、まちづくりに生かそうと平成元年、1億円ふるさと創生事業として「バスケの街づくり」事業をスタートさせた。
これまで、市総合体育館や能代山本スポーツリゾートセンター「アリナス」などスポーツ施設の整備拡充を図る一方、児童公園等へのバスケットリングの設置を進めてきた。またこれらスポーツ施設を活用して、全国から強豪チームが集まる高校選抜バスケットボール大会・能代カップなど各種大会の開催や合宿誘致等に取り組み、バスケットのまち・能代のイメージアップと交流拡大を図っている。
平成18年3月21日には、隣接する二ツ井町と合併し、新しい能代市として新たな歴史を踏み出す予定である。(秋田ふるさと物語の掲載原稿を一部訂正)

高校男子バスケットボールの名門・県立能代工業高等学校

