流行唄にもなった明治の不倫殺人
闇夜を切り裂く女の悲鳴
明治の末期、若い美貌の人妻が年下の愛人と共謀し、律儀で働き者と評判の夫を殺すという衝撃的な事件が起きた。テレビのワイドショーや週刊誌のない時代にあって、この「おヨネ庄吉夫殺し事件」はセンセーショナルな不倫殺人として社会の関心を集め、当時流行唄にまでなった。
明治天皇の崩御からまだ日が浅い大正元(1912)年9月3日午前1時半ころ、紫波郡見前村大字三本柳(現在の盛岡市三本柳)の飲食店兼魚行商の吉田三治郎(当時34)方から聞こえてくる
「大変だ。早く来てけれ」
という女のか細い悲鳴に、隣家の住人はとび起き、すかさず同家に駆けつけた。
暗がりの中、マッチの明かりをたよりに勝手の戸を開けると、中には男が血まみれで横たわり息絶えていた。事の重大さに気付いた住人は、大声で近所の人達を呼び集め、恐る恐る室内に足を踏み入れた。死んでいた男は主人の三治郎で、さらに勝手につながる奥の座敷には、裸のまま手足を縛られ猿ぐつわをされた妻のヨネ(当時24)が蚊帳にくるまり布団に横たわっていた。
三治郎の布団にはおびただしい血が流れ、ランプや戸棚にまで血ふぶきが飛び散り、その惨状は目を覆うばかり。鋭利な刃物でのどを切られた三治郎は勝手まで逃げたものの、そこで力尽きて絶命したらしい。
「寝ていたら、覆面をした強盗に襲われた」
というヨネの話を裏付けるように、タンスの中が荒らされていたのだが・・・。
冷え切った夫婦関係
殺害現場は国道に面した飲食店兼住宅。主人の三治郎は主に魚の行商に従事し、妻のヨネは家に居て飲食物や雑貨、たばこなどを販売。夏になると、店先に氷水の屋台を出し繁盛していた。美しく男好きのするヨネを目当てに足しげく店に通う男も多かったらしい。
犠牲となった三治郎は、7年前に父親が亡くなった後、弟妹の面倒を見ながら盛岡市内で生活していたが、思うように生活ができなくなり、やむなく一家は離散。三治郎は八戸地方にある酒造業の下働きの出稼ぎに行き、そこで無我夢中で働き小金を貯め、それから見前村三本柳に住む叔母をたよって現在地に移り住んだ。持ち前の律儀な性格で、家業である魚の行商に精進し、多少の蓄財もあったようだ。また青年団員として地域の信望も篤く、5年前には三本柳の叔母の娘であるヨネと結婚したが、子供はいなかった。
ヨネは、15歳で他家に嫁いだが離婚し、18歳の時いとこである三治郎の妻となった。家業は順調でなに不自由のない生活のように見えたが、夫婦の間にはいざこざが絶えなかった。村でも評判の美人だったヨネは結婚後も村の若者との関係がたびたび噂になり、三治郎が再三注意したにもかかわらず行動はいっこうに収まらず、むしろ火に油を注ぐ形でエスカレート。また三治郎が妻ヨネを虐待していたという話もあり、そんなことで最近は夫婦の仲は決定的に悪化し、離婚沙汰にまで発展していく。
妻を縛って夫を殺す
事件前日の2日、その日の行商を終え夕方帰宅した三治郎は、それが最後の晩酌になるとも知らず、売上金を勘定しながら妻を相手に2、3本の酒を飲み、夕食を食べていた。いつになく愛想よくヨネが酌をしてくれるので、三治郎は上機嫌だった。行商の疲れにアルコールの酔いも手伝って、三治郎はほどなく床に入った。寝息を立て熟睡する三治郎の横で、ヨネはまんじりともしないで床についていた。
その時、外には雨戸に身を張りつけて室内の様子をうかがう一人の男がいた。ヨネと共謀し三治郎殺しを画策した紫波郡大字西見前の農業長澤庄吉(当時21)で、短刀をヨネに渡したのもこの男である。
二人が床に入ってからどこくらい時間が過ぎたのだろうか。闇に包まれた静寂の中で、おヨネの胸には夫として苦楽を共にしてきた三治郎を殺すのはしのびないという思いがこみ上げていた。「何事もなくこのまま夜が明けてくれれば」と思っていたかも知れない。
しかしそれを許さなかったのは、今や遅しとヨネの決行を待つ庄吉の存在である。ためらっていたヨネは心を鬼にして、敷ふとんの下に隠していた短刀を取り出すと、庄吉から教えられた方法通りに、刃先を外側に向け、これを逆手に握り、三治郎の背後側面より咽喉部に一刀を加え、気管支と左右頚動脈を切断。その瞬間、血吹雪があたり一面に飛び散った。
庄吉は、この時を今かいまかと、雨戸の外で息を殺して待っていたのだ。三治郎はもがき苦しみながら勝手の上がり段まで這い出したものの力尽きた。出血多量で即死状態だった。
すぐさま庄吉は室内に入り、強盗を装いタンスの中を荒らし、ヨネを手際よく縛り上げた。そして、声をあげて隣家に助けを求めるようヨネに指図。その悲鳴を聞きつけて隣家の住人が同家の勝手口に立った時には、すでに庄吉は立ち去った後だった。
凶器の短刀発見が決め手に
ヨネと庄吉とは1年ほど前から愛人関係にあり、将来夫婦になることを約束し、誓約書までかわしていた。夫が地方への行商で留守がちなことをいいことに、二人は盛岡市内の旅館などで逢瀬を楽しんでいる。
この年の4月には、夫が不在中の留守宅で密会していたところを、予定より早く帰宅した三治郎に見つかり、厳しく問い詰められたということもあった。二人が新しい生活を始めるためには三治郎の存在は邪魔だったし、三治郎に掛けられた生命保険も魅力的に映ったかも知れない。
二人は共謀し、最初毒殺することを計画し毒草を採取したが、その計画は頓挫。その後庄吉は盛岡市内で短刀を買い求めヨネに渡し寝ている間に刺し殺すことを指示した。当初8月26日に殺害を計画、庄吉は屋外で"その時"を待ったが、ヨネは連れ添った夫を殺すのがしのびなく犯行を躊躇し、その日は何事もなく夜が明けた。
「短刀に錆があるので、殺せなかった」
とヨネは庄吉に苦し紛れの言い訳をした。
事件の捜査は「覆面をした強盗に襲われた」というヨネの証言にもかかわらず、金品が盗まれていないことから、怨恨か痴情によるものと見られた。しかし三治郎には他人から恨みを買うようなことがなく、そこで痴情関係に捜査は絞られていく。
またヨネの証言には辻褄の合わないことも多く、そこでヨネの身辺を洗うと庄吉と愛人関係にあって夫婦の間も冷え切っていたことが判明。同家前の小川からは凶行に使われた短刀が発見され、さらに庄吉にこの短刀を売った店員の証言も得られた。ヨネは素直に犯行を自供したが、一方の庄吉は
「短刀を買って渡したこと、犯行が行われた時に戸外にいたこと、強盗を装ったことは認めるが、殺害をおヨネと共謀したこともなければ、殺害の方法を教えたこともない」
と最後まで言い逃れを続けた。
世間の注目を集めたこの事件は、大正元年10月14日、傍聴席に入り切らないほど大勢の人が詰め掛ける中、盛岡地方裁判所でヨネ、庄吉に死刑という判決が言い渡された。二人は判決後、宮城控訴院に控訴したが棄却となり、さらに大審院に上告したものの、それも棄却となって、死刑が確定。大正2年12月25日死刑が執行された。

