2006年10月05日

古くから漁港・商港として発達 宮城県塩竈市

鹽竈神社の門前町として栄える

 宮城県中央東部に位置し、松島湾にのぞむ港まち。古くから東北鎮護・陸奥国一の宮として崇敬を集めた鹽竈神社の門前町として発展、また松島湾観光の入口として知られ、観光都市であるとともに、漁港・商港として発達した東北地方の重要な港湾都市である。
 市域東部の松島湾上に浮かぶ浦戸諸島は、松島県立公園の一部に含まれる景勝地。昭和16年11月、塩竈町から市政施行で塩竈市となり、その後、同24年に多賀城町の一部を編入。同25年に浦戸村を編入し、現行の塩竈市となった。
 市域発展のきっかけは、8世紀前半、多賀城に鎮守府と陸奥国府が置かれたことに伴うといわれる。多賀城から東北5キロほどの距離にあった鹽竈神社は、国府に近いこともあり、国府の神として朝廷をはじめ多くの庶民から崇敬を集めた。武神である香取・鹿島の神と、その教導の神としての塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)が合祀されている。
 鹽竈神社の由緒としては、醍醐天皇の延長5(927)年に編纂された『延喜式』に、当時陸奥国から朝廷への正税が六十万三千束の時代、一万束の祭祀料を授かっていたことが記され、これは後に「陸奥国一の宮」と呼ばれる歴史的背景となっている。まちは、鹽竈神社の門前町として古くからにぎわったのである。

伊達家の保護を受けて発展を続ける

 鹽竈神社への信仰は、武家社会になってからも途切れることはなく、多くの武将・豪族の崇敬を集めた。ことに伊達政宗は慶長12(1607)年、社殿を造営し奉斎を捧げた。現在の社殿は、第四代藩主綱村が元禄八年に神社造営の計画をたてて工事に着手し、第五代吉村の宝永元年(1706)まで9年の歳月をかけて竣工したものである。
 仙台藩時代になると、塩竈は城下町仙台への荷物の陸揚港として新しく発展してくる。しかし万治・寛文年間(1658〜1673)塩竈湾口の牛生から蒲生(仙台市)・苦竹(同)を結ぶ御舟入新堀・御舟曳堀が掘られたことにより、仙台城下への物資が塩竈を通らなくなったことなどから、町全体が一時さびれた。
 四代綱村は、塩竈の年貢を免除するほか、租税免除と下賜金、馬市の許可、見世物・芝居の春と秋の許可、自由に新田を開くこと、商人の品物・五十集(いさば)船・材木船は塩竈に着けるようにという「九か条の特令」を出した。伊達家の保護などもあり、再び町は大きく発展した。

築港工事の展開で、国内有数の商港・漁港に成長

 明治時代に入ると、同15(1882)年塩釜の築港工事が始められ、18年には現在の本塩竈駅前付近の5千坪の埋立地と海岸前の岸壁、そして約1500メートルの航路が完成し、商港塩釜の基礎が固まった。
 また明治20年に塩竈ー仙台間を結ぶ鉄道・塩釜線が開通すると、塩竈は物資の集散地として、ますます重要度を高めていった。
 明治40年には、塩釜港は第二種重要港湾の指定を受ける。翌41年には三陸汽船株式会社ができて、塩竈を起点とした三陸方面への旅客・物資の輸送航路が開かれた。さらにその後の築港工事の進展や、岸壁までの臨港線の完成、新漁港と1万トン岸壁の修築、大型岸壁の完成による大型船の入港などが続き、昭和30年代からは近代港湾都市へと大きく歩みだした。
 漁港としても、塩釜線の開通以後急激に発展した。昭和4年、荷揚岸壁の一部に上屋を設けて魚市場がつくられ、当時は東洋一の規模といわれた。水揚量の増加に伴い水産加工業も急速に発展した。 
 同26年にはそれまでの魚市場の対岸、杉ノ入表に新漁港の工事が始まり、昭和40年に完成。世界的漁場として名高い金華山沖海域に出漁する漁船の根拠地として、県外の漁船も多く入港するようになった。
 また近年、塩釜港はマグロ船団の基地となっていて、生マグロの水揚げ量は日本一を記録している。加えて、かまぼこなどの練り製品の生産量、1平方キロメートルあたりの寿司屋の密度も日本一となっていて、水産業は塩竈の基幹産業となっている。
 平成13年には塩竈港が東北初の特定重要港湾に指定、国際貿易港としての新たな発展に期待が寄せられている。

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