秋田県南、横手盆地の南部に位置し、東に奥羽山脈に連なる国定公園、西に出羽丘陵があり、その間を南北に貫流する雄物川沿いに開けている。北は平鹿郡と接し、他の三方を雄勝郡に囲まれている。昭和29年3月、湯沢、岩崎の二町と弁天、幡野、三関、山田の4村が合併して誕生、翌30年に須川村を編入した。
「湯沢」の名の由来は、今から約1300年前にさかのぼる。蝦夷征討にあたった坂上田村麻呂(756〜811年)が、この地に愛宕神社を建立し、地名を松沢としたのに始まる。その後、いまから約800年前に湯ノ原地区に温泉が発見され、以来湯沢と称されるようになったという。
鎌倉時代には小野寺氏が湯沢城を築いた。湯沢城址は現市役所そばの古館山にあって、物見櫓、本丸、二ノ丸跡といった表示や、前森、裏門などの地名が今も残っていて往時をしのばせる。
その後、関ケ原の戦い(1600年)後、常陸の国の豪族だった佐竹氏が秋田藩に国替えになった際、佐竹義宣は土崎の湊城に入り、佐竹南家の義種は湯沢城に入った。慶長8(1603)年、湯沢城主となった義種は屋敷割りをおこない、町並みが形成され、以来、湯沢は南家一族の城下町として栄えていく。なかでも大きな転機となったのは、慶長11(1606)年の院内銀山(場所は、合併前の旧雄勝町内)の発見である。
院内銀山は佐竹藩の重要な財源を産出した山で、銀山周辺には元和3(1617)年当時で1300戸、7100人余り、さらに最盛の天保のころ(1830〜1844年)で1万5千人の集落地が形成され、その人口は久保田城下(秋田市)をしのぐほどであった。
また、諸国より遊芸人・文化人も多く入り込み「出羽の都」といわれるほどの繁栄を誇った。湯沢は、院内銀山へ運ぶ物資の中継商業基地として大きく発展を遂げ、いくつか産業も生まれた。酒造業は、豊富な米と水に恵まれ、享保11(1726)年には27軒を超えたという記録が残っている。
「酒造業」「木工業」は高評価の地場産業
明治に入り、同38(1905)年の奥羽本線の全線開通、昭和3年の湯沢と西馬音内を結ぶ雄勝電気鉄道の開通も、湯沢の産業に大きな変化をもたらした。
江戸期からの木材業は、二路線の開通で湯沢が集積地となり、湯沢駅前には製材工場が設けられた。
酒造業は、灘の酒と対抗するために、新技術の採用を積極的におこなう商店も出て、各商店や各杜氏の切磋琢磨で湯沢の酒は大きく発展した。明治40(1907)年、「庭の井(現在の両関酒造)」は、第一回全国清酒品評会で一等賞に輝いている。今日、湯沢は「酒のまち・東北の灘」といわれ、木材、家具・工芸などの木工業は地場産業として確固たる地位を保っている。
第二次対戦後は、稲作のほかにリンゴ栽培が盛んになった。現在では、奥羽山脈の扇状地としての肥沃な土壌もあって、リンゴに加えて良質のサクランボ、キュウリ、トマトが栽培され、古くから有名な三関地区の芹(せり)とともに、消費者から高い評価を得ている。
継続された「雄湯郷構想」「ゆざわ21」
市は昭和29年3月の市政施行以来、湯沢雄勝地方の行政、経済、文化の中心地として発展してきた。しかし、近年の少子高齢化、経済環境などの変化に対応するため、平成11年3月に「雄湯郷(ゆうとぴあ)」整備基本計画を策定、さらに同13年3月には湯沢市総合計画「ゆざわ21」を策定し、地域の活性化に取り組んできた。
雄湯郷構想は、湯沢・雄勝(湯沢市、羽後町、稲川町、雄勝町、皆瀬村、東成瀬村)地域が人・物・情報の交流をとおし、活性化を目指していくというもの。
平成17年3月、稲川町、雄勝町、皆瀬村との合併で新「湯沢市」が誕生したが、雄湯郷構想、「ゆざわ21」は継続され、目標に向かって推進中である。山田地区には保健医療・福祉施設の集積の整備が進み、ぐるっとロードは他市町村と綿密な連携を図りつつ着実に進められている。須川地区の温泉や山岳地を中核とする観光開発では、栗駒国定公園への西玄関口としての認知が高まり、泥湯温泉、三途川渓谷、川原毛地獄などの景勝地への中継地となっている。
また市内の観光資源としては、浮世絵美人が描かれた数百個の絵どうろうが通りにかかげられる「七夕絵どうろうまつり」(旧暦7月7日)や佐竹南家の格式がしのばれる絢爛な「大名行列」(8月)、約390年の歴史を持つ民俗行事「犬っこまつり」(2月)などがある。

