2006年10月24日

サスケ議員、またまた問題発言

【岩手】

栗駒興発が再生法申請 負債34億円(河北新報10月17日)

東日本クレジット 「社員、返済求め暴行」岩手県警捜査(河北新報10月18日)

コンビニATM 県内にもお目見え(朝日新聞岩手10月18日)

サスケ県議 「中学校で覚せい剤取引」不用意発言、委員会空転(読売新聞岩手10月20日)

詐欺:知的障害者から詐取の男に有罪−−地裁判決 (毎日新聞岩手10月21日)

【秋田】

385億円不足 07年度県当初予算方針(朝日新聞秋田10月17日)

障害児通園も半額助成へ 保育所・幼稚園同様 県、来春に枠拡充(読売新聞秋田10月19日)


青森

拳銃をパチンコ店のトイレに置き忘れる 青森県警巡査長(朝日新聞10月19日)

2万1100人分データ紛失(朝日新聞青森10月19日)

2006年10月08日

奥州市と黒石市で交通死亡事故、高齢女性2人亡くなる

【交通死亡事故】各地で交通死亡事故が発生しています。くれぐれも安全運転をお願いします。

●10日5日午後5時30分ごろ、岩手県奥州市江刺区男石の国道456号交差点で、横断歩道を歩いていた同市江刺区六日町、無職菊地ツネ子さん(72)が、同市胆沢区若柳、運転手安倍正明容疑者(44)運転のトラックにはねられて死亡した。江刺署は、安倍容疑者を業務上過失傷害の現行犯で逮捕し、その後、容疑を業務上過失致死に切り替えて取り調べている。

●10月6日午前7時45分ごろ、青森県黒石市上十川大野一番の市道交差点で、黒石市北美町、無職山口キクエさん(67)の原付バイクと、同市上十川北原、農業宇野正城さん(70)の軽トラックが出合い頭に衝突。この事故で山口さんは胸などを強く打ち間もなく死亡した。
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障害者自立支援法の施行に伴う問題など

★「福祉事務所、男性に車保有禁止 秋田県が処分取り消し」河北新報10月3日

★「大型店規制で事業主と青森市攻防」東奥日報10月3日

★「障害児通園施設 利用料5〜8倍増 月額最高2万近く 県、支援の想定外」読売新聞秋田版10月6日


●「新都市像どう描く 中核市青森が船出」河北新報10月2日

●「秋田市の建設など6社が破産準備 負債総額は約20億円」秋田魁新聞10月3日

●「野方建設を任意整理へ 今年県内最大」岩手日報10月3日

●「とうてつ駅ビル、三沢店スーパーなど閉店へ 十鉄、流通部門から撤退」
読売新聞青森版10月3日

●「菊池工務店:破産手続き申し立てへ 従業員48人に解雇通知−−釜石」
毎日新聞岩手版10月3日

●「岩手県、飲酒運転同乗者も懲戒 悪質な場合は免職」岩手日報10月6日

●「現場から:リサイクルポート指定めざす能代港 「県北振興の核に」地元熱く 」毎日新聞秋田版10月6日
 
●「新人の一騎打ちが確実に 滝沢村長選」岩手日報10月7日

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2006年10月07日

活力とふれあいのある「史都」 宮城県多賀城市

陸奥国を治めるため多賀城が置かれた史都

 宮城県中央東部、太平洋岸に近く仙台市と塩竈市の中間に位置している。国道45号が産業の動脈として市内中央を走る。土地はおおむね平坦で、東南に向かって平野が開け、仙台湾に面し工場地帯を形成している。西北部は丘陵性の高台になっており、西南部には田畑が広がり、中心部を砂押川が東西に貫流し、貞山運河を経て仙台湾に注いでいる。明治22年、13カ村が合併して多賀城村が生まれ、昭和26年に町制施行。同46年11月に市制施行し現行の多賀城市となった。
 市は、陸奥国を治めるためにつくられた多賀城で広く知られ、歴史・文化・自然の彩り豊かな「史都」と呼ばれている。多賀城は奈良時代、東北に土着していた蝦夷経営のために奈良時代の初期に築城されたもので、朝廷の鎮守府が置かれた。昭和38年から遺構の発掘調査が始まり、奈良・平安時代の多くの情報を提供してくれている。
 特別史跡多賀城跡(市川・浮島地区)は、全体が一辺900メートル前後のゆがんだ四角形をしていて、その周囲は築地(ついじ)と呼ばれる土塀が囲まれていた。中央部には約100メートル四方の政庁跡があり、この周囲にも築地がめぐらされていた。遺構は市内北端の市川地区全域を占めている。
 市川・浮島地区にかけて所在している「多賀城政庁跡に続く大路」は国の特別史跡に指定。多賀城址から南東へ1キロメートルほどの場所にある「多賀城廃寺」(高崎地区)は多賀城の附属寺院跡で、やはり国の特別史跡に指定されていて、現在は歴史公園として整備され、市民の憩いの場となっている。多賀城南門近くにある多賀城碑(壺の碑)は、日本三大古碑で、国の重要文化財に指定されている。市内高崎には東北歴史博物館があり、多賀城発掘調査の際の資料や東北の歴史を映像で体感できる施設などがある。

豊かな自然・水辺環境を保全しISO14001も取得

 史都多賀城は、古来から美しい自然に囲まれ、奈良・平安時代は都人たちのあこがれを集め、多くの官人や文人が訪れた地でもある。彼らによって、数多くの歌に詠まれ、周辺には「歌枕」となった地も多い。前出の「壺の碑」もまたその一つで、歌枕の地を訪ねて旅に出た芭蕉が、「壺の碑」を見つけて深く感動したことが「おくのほそ道」に綴られている。
 市内の豊かな自然環境を象徴するものに、加瀬沼周辺の水辺の風景がある。多賀城市・塩竈市・利府町にまたがる加瀬沼とその周辺一帯65ヘクタールは、昭和48年8月、県自然環境保全条例により緑地環境保全地域に指定された。
 加瀬沼周辺は暖地系植物、寒地系植物が混在し、植物相が豊富な地として貴重であるとされている。春は花見や新緑が楽しめ、冬にはハクチョウや多くの水鳥が観察され、市民の憩いの地として多くの人に愛されている。
 加瀬沼や砂押川などの水辺の環境は、市民の多くのボランティアによって守られている。花と緑のふれあいまつりや花のまちづくり事業などの緑化活動も、地域や市民が主体となっておこなっている。
 また、多賀城跡の一角、「多賀城跡あやめ園」には、季節になるとおよそ二150種類、150万本のあやめ、花菖蒲などの花が咲き乱れる。あやめは、市の花に制定されている。
 一方、市では平成14年2月に、地球環境問題に対処するための国際規格ISO14001を取得、職員みずから先頭に立って環境を守るための行動に取り組んでいる。

工業構造の変化に対応した環境整備と基盤確立を図る

 市の基幹産業となっているのは工業である。戦前、多賀城には海軍工廠が設けられていたが、終戦とともにアメリカ軍が駐留。その後昭和26年になって米軍が撤退し、その跡地に積極的な工場誘致が図られた。
 仙台・塩竈両都市の間に位置することや、昭和46年開港の仙台港の背後地にあることも有利に働き、以来、県内有数の工業地帯として発展してきた。昭和39年には新産業都市に指定されている。
 市は平成12年9月、第四次多賀城市総合計画を策定。将来の都市像に「活力とふれあいのあるまち『史都・多賀城』」を掲げ、まちづくりを推進している。
 工業においては、仙台港背後地に集積する工業地域を「工業ゾーン」として位置づけ、住工混在地の解消や敷地内緑化の促進等、公害防止にも配慮した上で、その整備に力を入れている。また、高度な技術や高付加価値の製品の開発が求められている近年の工業構造の変化に適切に対応できるように、産・学・官の協力による環境整備と工業基盤の確立を図るとともに、IT産業やベンチャービジネス産業などの新産業の集積を目指し、支援も行っている。

2006年10月06日

岩手山を望む観光と農業のまち 岩手県・旧西根町(現八幡平市)

 
不毛の地を開拓し生まれた大更御新田

 南西に岩手山、北に七時雨山がそびえ、その山々に囲まれた盆地に美しい田園風景が広がる大更、平舘、田頭、平笠。肥沃な土壌に恵まれ、奥羽山系を源とする松川、七時雨山に源を発する涼川の豊富な水資源をもとに古くから稲作が盛んに行われてきた。 
 文治5(1189)年、西根全域を含む岩手郡は鎌倉御家人の工藤氏の所領となり、工藤一族らによって平舘、田頭の水田開発が進められたようだ。その後天正年間(1573〜92)に、平舘城を拠点として平舘、田頭、平笠を治めていた平舘氏は一千石を有していたというから、当時すでにこの地において米の栽培が盛んに行われていたことが伺える。
 一方、大更は大きな湿地帯、荒れ地を意味するアイヌ語に由来しており、稲作に適さない土地だった。しかし元禄10(1697)年、南部藩主行信が、この大湿原に着目し、御側御新田(おそばごしんでん)として開拓に着手した。
 御側御新田というのは、藩主のお手許金によって開拓される新田のことで、新田からの年貢は藩に納めるのではなく、藩主の内帑金(ないどきん)、いわゆるポケットマネーとして藩主やその一族が自由に使えたという。
 新田開発に優れた手腕を発揮した新田奉行の高橋佐伝治らのたゆまぬ努力と農民の労苦が結実し、四十年後の元文3(1737)年には、生産高千百五石の美田として大更御新田が誕生。不毛の土地だった大更に戸数207戸、人口1041人の大きな村が出来上がった。
 大更の農民は、南部藩主の御直百姓(おじかびゃくしょう)としての誇りを持って、米の栽培に励んだということである。

人馬の往来でにぎわった沼宮内街道

 明治初期まで西根町内を通る陸上交通の幹線は、盛岡から平笠、田頭、平舘、寺田を通過し、七時雨の厳しい峠越えを経て、安代町の荒屋、田山、そして鹿角に至る鹿角街道(津軽街道)だった。現在は西根町内を南北に貫く国道282号線がその役割を担っている。
 また藩政時代には、地域の人々は鹿角街道以上に沼宮内街道の利用し、沼宮内街道は村の暮らしを支える大切な道路として多くの人馬が行き交った。
 それは、沼宮内には代官所があったし、馬のせり市も開かれていたほか、村で生産された米や雑穀などの取り引きも沼宮内の商人を相手に行われていたからだ。村人は、馬や農産物を売った金で、村では手に入らない塩、魚、衣類などを沼宮内で買って帰ったという。

町に活気をもたらした松尾鉱山
 
 こうした村に初めて”鉄道”が登場したのは大正4(1915)年のことである。松尾村の松尾鉱山創業に伴って、松尾村屋敷台と大更間の道路を利用し、人力による手押し車(トロッコ)を走らせる軌道を敷設、鉱山鉄道が開業した。松尾鉱山から産出された硫黄を満載したトロッコは、大更を目指し走り続けた。
 その後鉱山が発展するにつれ、鉱山鉄道も大きく姿を変え、昭和4(1929)年には馬車からガソリン気動車へとパーワーアップ。戦後間もない同26年には、東北本線より16年も早く電線電化を実現。その後上野から東北本線、花輪線を経由して東八幡平駅(旧屋敷台)への直通スキー列車も運行された。
 しかし地域の人々に親しまれた鉱山鉄道も同47年、東洋一の硫黄鉱山として隆盛を極めた松尾鉱山の閉山により、あっけなく廃止されてしまった。
 一方、大正8年には平館と玉山村好摩間に岩北軌道が正式開業したが、それから3年後の同11年に花輪線好摩〜平館間が開業したことにより、廃止の憂き目にあっている。

啄木の祖父母の墓がある平舘の大泉院
 
 平舘には、岩手の生んだ天才詩人、石川啄木の歌碑が平舘駅構内、大泉院境内と同庭園、それに平舘高校通りの四カ所にある。
 啄木にとって平舘は、父である石川一禎が生まれた地であり、馴染み深い土地なのである。一禎は、大泉院で仏門に入り、のちに岩手郡日戸村の常光寺、渋民村の宝徳寺の住職を務めながら、啄木を育てた。
 大泉院には啄木の祖父母や一族の墓があり、平舘には啄木の血族30人ほどが暮らしているという。

女性を中心とした伝統行事、平笠裸参り

 毎年1月8日に行われる平笠裸参りは、平笠の宮田神社から大更の八坂神社までの約12キロを、家内安全、無病息災、豊作などを祈りながら練り歩く伝統行事。岩手山の噴火を恐れた村人たちが、山神の怒りを鎮めようと、享保4(1719)年に岩鷲山権現に奉納したのが始まりといわれる。太平洋戦争中には出征した夫や息子の無事を祈る女性たちが参加したことから、いまでは女性を中心とした行事として定着している。
 同町の西にある岩手山焼走り溶岩流は国の特別天然記念物。岩手山が噴火し、吹き出した溶岩が冷えて固まってできたもので、長さ約3キロ、最大幅約1キロに及ぶ。周辺は国際交流村として日帰り温泉、天文台、キャンプ場などの施設が整備されており、多くの観光客を集めている。牧歌的な風景が広がる七時雨山麓も素晴らしい。 
 平成17年9月1日、安代町、松尾村と合併し、八幡平市として新たな歴史をスタートさせた。

2006年10月05日

古くから漁港・商港として発達 宮城県塩竈市

鹽竈神社の門前町として栄える

 宮城県中央東部に位置し、松島湾にのぞむ港まち。古くから東北鎮護・陸奥国一の宮として崇敬を集めた鹽竈神社の門前町として発展、また松島湾観光の入口として知られ、観光都市であるとともに、漁港・商港として発達した東北地方の重要な港湾都市である。
 市域東部の松島湾上に浮かぶ浦戸諸島は、松島県立公園の一部に含まれる景勝地。昭和16年11月、塩竈町から市政施行で塩竈市となり、その後、同24年に多賀城町の一部を編入。同25年に浦戸村を編入し、現行の塩竈市となった。
 市域発展のきっかけは、8世紀前半、多賀城に鎮守府と陸奥国府が置かれたことに伴うといわれる。多賀城から東北5キロほどの距離にあった鹽竈神社は、国府に近いこともあり、国府の神として朝廷をはじめ多くの庶民から崇敬を集めた。武神である香取・鹿島の神と、その教導の神としての塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)が合祀されている。
 鹽竈神社の由緒としては、醍醐天皇の延長5(927)年に編纂された『延喜式』に、当時陸奥国から朝廷への正税が六十万三千束の時代、一万束の祭祀料を授かっていたことが記され、これは後に「陸奥国一の宮」と呼ばれる歴史的背景となっている。まちは、鹽竈神社の門前町として古くからにぎわったのである。

伊達家の保護を受けて発展を続ける

 鹽竈神社への信仰は、武家社会になってからも途切れることはなく、多くの武将・豪族の崇敬を集めた。ことに伊達政宗は慶長12(1607)年、社殿を造営し奉斎を捧げた。現在の社殿は、第四代藩主綱村が元禄八年に神社造営の計画をたてて工事に着手し、第五代吉村の宝永元年(1706)まで9年の歳月をかけて竣工したものである。
 仙台藩時代になると、塩竈は城下町仙台への荷物の陸揚港として新しく発展してくる。しかし万治・寛文年間(1658〜1673)塩竈湾口の牛生から蒲生(仙台市)・苦竹(同)を結ぶ御舟入新堀・御舟曳堀が掘られたことにより、仙台城下への物資が塩竈を通らなくなったことなどから、町全体が一時さびれた。
 四代綱村は、塩竈の年貢を免除するほか、租税免除と下賜金、馬市の許可、見世物・芝居の春と秋の許可、自由に新田を開くこと、商人の品物・五十集(いさば)船・材木船は塩竈に着けるようにという「九か条の特令」を出した。伊達家の保護などもあり、再び町は大きく発展した。

築港工事の展開で、国内有数の商港・漁港に成長

 明治時代に入ると、同15(1882)年塩釜の築港工事が始められ、18年には現在の本塩竈駅前付近の5千坪の埋立地と海岸前の岸壁、そして約1500メートルの航路が完成し、商港塩釜の基礎が固まった。
 また明治20年に塩竈ー仙台間を結ぶ鉄道・塩釜線が開通すると、塩竈は物資の集散地として、ますます重要度を高めていった。
 明治40年には、塩釜港は第二種重要港湾の指定を受ける。翌41年には三陸汽船株式会社ができて、塩竈を起点とした三陸方面への旅客・物資の輸送航路が開かれた。さらにその後の築港工事の進展や、岸壁までの臨港線の完成、新漁港と1万トン岸壁の修築、大型岸壁の完成による大型船の入港などが続き、昭和30年代からは近代港湾都市へと大きく歩みだした。
 漁港としても、塩釜線の開通以後急激に発展した。昭和4年、荷揚岸壁の一部に上屋を設けて魚市場がつくられ、当時は東洋一の規模といわれた。水揚量の増加に伴い水産加工業も急速に発展した。 
 同26年にはそれまでの魚市場の対岸、杉ノ入表に新漁港の工事が始まり、昭和40年に完成。世界的漁場として名高い金華山沖海域に出漁する漁船の根拠地として、県外の漁船も多く入港するようになった。
 また近年、塩釜港はマグロ船団の基地となっていて、生マグロの水揚げ量は日本一を記録している。加えて、かまぼこなどの練り製品の生産量、1平方キロメートルあたりの寿司屋の密度も日本一となっていて、水産業は塩竈の基幹産業となっている。
 平成13年には塩竈港が東北初の特定重要港湾に指定、国際貿易港としての新たな発展に期待が寄せられている。

2006年10月04日

良質な水を生かした銘酒の産地 旧湯沢市(秋田県)

院内銀山で発展した佐竹南家の城下町

 秋田県南、横手盆地の南部に位置し、東に奥羽山脈に連なる国定公園、西に出羽丘陵があり、その間を南北に貫流する雄物川沿いに開けている。北は平鹿郡と接し、他の三方を雄勝郡に囲まれている。昭和29年3月、湯沢、岩崎の二町と弁天、幡野、三関、山田の4村が合併して誕生、翌30年に須川村を編入した。
 「湯沢」の名の由来は、今から約1300年前にさかのぼる。蝦夷征討にあたった坂上田村麻呂(756〜811年)が、この地に愛宕神社を建立し、地名を松沢としたのに始まる。その後、いまから約800年前に湯ノ原地区に温泉が発見され、以来湯沢と称されるようになったという。
 鎌倉時代には小野寺氏が湯沢城を築いた。湯沢城址は現市役所そばの古館山にあって、物見櫓、本丸、二ノ丸跡といった表示や、前森、裏門などの地名が今も残っていて往時をしのばせる。
 その後、関ケ原の戦い(1600年)後、常陸の国の豪族だった佐竹氏が秋田藩に国替えになった際、佐竹義宣は土崎の湊城に入り、佐竹南家の義種は湯沢城に入った。慶長8(1603)年、湯沢城主となった義種は屋敷割りをおこない、町並みが形成され、以来、湯沢は南家一族の城下町として栄えていく。なかでも大きな転機となったのは、慶長11(1606)年の院内銀山(場所は、合併前の旧雄勝町内)の発見である。
 院内銀山は佐竹藩の重要な財源を産出した山で、銀山周辺には元和3(1617)年当時で1300戸、7100人余り、さらに最盛の天保のころ(1830〜1844年)で1万5千人の集落地が形成され、その人口は久保田城下(秋田市)をしのぐほどであった。
 また、諸国より遊芸人・文化人も多く入り込み「出羽の都」といわれるほどの繁栄を誇った。湯沢は、院内銀山へ運ぶ物資の中継商業基地として大きく発展を遂げ、いくつか産業も生まれた。酒造業は、豊富な米と水に恵まれ、享保11(1726)年には27軒を超えたという記録が残っている。

「酒造業」「木工業」は高評価の地場産業

 明治に入り、同38(1905)年の奥羽本線の全線開通、昭和3年の湯沢と西馬音内を結ぶ雄勝電気鉄道の開通も、湯沢の産業に大きな変化をもたらした。
 江戸期からの木材業は、二路線の開通で湯沢が集積地となり、湯沢駅前には製材工場が設けられた。
 酒造業は、灘の酒と対抗するために、新技術の採用を積極的におこなう商店も出て、各商店や各杜氏の切磋琢磨で湯沢の酒は大きく発展した。明治40(1907)年、「庭の井(現在の両関酒造)」は、第一回全国清酒品評会で一等賞に輝いている。今日、湯沢は「酒のまち・東北の灘」といわれ、木材、家具・工芸などの木工業は地場産業として確固たる地位を保っている。
 第二次対戦後は、稲作のほかにリンゴ栽培が盛んになった。現在では、奥羽山脈の扇状地としての肥沃な土壌もあって、リンゴに加えて良質のサクランボ、キュウリ、トマトが栽培され、古くから有名な三関地区の芹(せり)とともに、消費者から高い評価を得ている。

継続された「雄湯郷構想」「ゆざわ21」

 市は昭和29年3月の市政施行以来、湯沢雄勝地方の行政、経済、文化の中心地として発展してきた。しかし、近年の少子高齢化、経済環境などの変化に対応するため、平成11年3月に「雄湯郷(ゆうとぴあ)」整備基本計画を策定、さらに同13年3月には湯沢市総合計画「ゆざわ21」を策定し、地域の活性化に取り組んできた。
 雄湯郷構想は、湯沢・雄勝(湯沢市、羽後町、稲川町、雄勝町、皆瀬村、東成瀬村)地域が人・物・情報の交流をとおし、活性化を目指していくというもの。
 平成17年3月、稲川町、雄勝町、皆瀬村との合併で新「湯沢市」が誕生したが、雄湯郷構想、「ゆざわ21」は継続され、目標に向かって推進中である。山田地区には保健医療・福祉施設の集積の整備が進み、ぐるっとロードは他市町村と綿密な連携を図りつつ着実に進められている。須川地区の温泉や山岳地を中核とする観光開発では、栗駒国定公園への西玄関口としての認知が高まり、泥湯温泉、三途川渓谷、川原毛地獄などの景勝地への中継地となっている。
 また市内の観光資源としては、浮世絵美人が描かれた数百個の絵どうろうが通りにかかげられる「七夕絵どうろうまつり」(旧暦7月7日)や佐竹南家の格式がしのばれる絢爛な「大名行列」(8月)、約390年の歴史を持つ民俗行事「犬っこまつり」(2月)などがある。
 

2006年10月03日

あきたこまちと花火の里 旧大曲市(秋田県)

群雄が割拠し、変転した戦国時代

 県南、穀倉地帯として知られる仙北平野の中心地である。昭和29年、大曲、大川西根、内小友、花館、四ツ屋、藤木の一町五村が合併して大曲市となった。翌年、角間川町を編入した。国道13号と105号が交差、秋田自動車道大曲ICにつながる。奥羽本線から田沢湖線が分岐し、首都圏とは新幹線で結ばれる交通結節点である。
 古代の人跡を示すものとして縄文後期の成沢遺跡、続縄文期の宇津台遺跡がある。ここで発見された妊婦型土偶は子孫繁栄や豊穣への祈りが込められた信仰を表す、珍しい出土品。
 奈良時代には律令制に組み込まれ、『和名抄』に余目が「山本郡余戸」として出てくる。坂上田村麻呂伝説も残っていて、蛭川薬師神社は大同2年(802)年、蝦夷平定のおり、戦勝を祈願した所とされている。
 鎌倉時代、仙北郡に勢力を張っていた加藤氏が支配していた。その拠点、大曲城は雄物川と丸子川の合流点に築かれていたとされる。北条鎌倉幕府の没落とともに同氏は衰退、台頭したのが戸沢氏であった。
 古四王神社は配下の富樫氏が元亀(1570)年に再建したといわれる。釘を一本も使っていない古建築の傑作。同氏は東南の高畑孔雀城に移り、前田氏が大曲城に入る。しかし、主家と反目して天正10(1582)年に攻められて滅び、大曲城は焼失した。
 慶長6(1601)年、全国の覇権を握った徳川家康は角間川に勢力があった小野寺氏を改易。同7年には戸沢氏・六郷氏を常陸へ移封。代わって入部したのが佐竹氏であった。

街道と水運と米づくりで発展

 佐竹藩は水田開発を進めるとともに、大曲が羽州街道の要衝であることから本陣を置き、宿場町とした。雄物川の水運にも着目して河港を整備した。角間川は流域右岸では最大の河港であった。商業の町として成立したのはこの頃である。
 この交通形態は明治維新後も続いたが明治38(1905)年、奥羽本線が開通したことで一変。物資の輸送は陸路が主流となり、水運は衰退した。
 古くから雄物川と丸子川の水に恵まれたことから穀倉となった。数次にわたる農業振興計画が打ち出され、先導的な取り組みが展開されてきた。減反政策の強化、コメ自由化は農業の構造転換を強いるものであったが、これを克服し、消費者のニーズに応えた「あきたこまち」のブランド化を推進。全国で高い評価を確立した。コメ専業農家では規模拡大が進む一方で、野菜・園芸などを取り入れた兼業・複合化が広がっている。

伝統の技術が生きる世界に広がる花火

 街道とともに発達し、農村を背後に控えた田園商業都市であることから大型店舗、量販店、公共施設の集積が進み、周辺から購買客を吸引している。県内では秋田市に次いで商業販売額が多い底堅い商圏を持つ。
 有力な地場産業である「大曲の花火」は日本三大花火大会として全国から観光客を呼ぶ。明治43年、第一回全国煙火競技大会が開かれたほど、大曲の花火師の伝統に培われた技術は高く、その活躍の場は世界に広がりを見せている。
 工業分野では弱電、OA、アパレル企業などが進出し、若者の定住化に寄与している。大曲ICから1キロの至近にある中沢工場団地が平成16年度に完成、分譲を開始している。

住みよさ・暮らしやすさ折り紙つきの田園都市

 当市は全国有数の住みよい都市として評価されている。これは「全都市住みよさランキング」(主催・東洋経済新報社)では平成11年から三年連続全国第一位となった。秋田新幹線及び自動車道などの高速交通網、医療・福祉施設などの充実度、商業集積による利便度、公園面積などの快適度、財政力などの富裕度、住宅床面積などの住環境充実度の各指標で高い数値を獲得したことによる。長年の行政努力が評価されたものであり、市民に誇りと勇気を与えた。
 仙北地方は秋田民謡の発祥の地。唄い継がれてきた文化を後世に伝えようとして毎年6月、「秋田おばこ節全国大会」が開かれる。全国からチャンピオンを目指す歌い手や民謡ファンにとっては人気の行事となっている。「大曲新人音楽祭コンクール」はクラシックの若手音楽家の登竜門。「音と光と水のまち」を掲げる地域づくりを支えるイベントに成長した。
 平成17年3月、中仙、西仙北、協和、太田、神岡、南外、仙北の周辺町村とともに新たな大仙市が発足。人口約10万人、財政規模5百億円の仙北広域圏の中心都市として発展を牽引している。