2005年11月24日
岩手県東和町の第3セクター元常務を逮捕
岩手県東和町の第3センター「とうわアグリトピア公社」の不正取引問題を捜査している岩手県警捜査2課と花巻署は11月22日、元公社常務の伊藤隆造容疑者(53)を有印私文書偽造、同行使の疑いで逮捕した。
八戸・理容師殺害事件の重要参考人が死亡
今年8月27日に八戸市で発生した女性理容師殺害事件の重要参考人として八戸署が行方を追っていた八戸市の無職男性(55)が11月20日午後、八戸市内で遺体で発見された。死因は凍死。
一関市と能代市でそれぞれ男性が死亡
11月20日午後4時50分ごろ、一関市室根町折壁欠入田の国道284号で歩いて横断していた胆沢町若柳堰袋の運転手渡辺智夫さん(68)が、宮城県気仙沼市の警備員男性(48)の乗用車にはねられ死亡した。
11月21日午後5時15分ごろ、能代市字袖又の市道で同市字塩干田の田中久夫さん(73)の軽トラックが、信号待ちで停止中の乗用車に追突。田中さんは胸などを強く打ち死亡した。
11月21日午後5時15分ごろ、能代市字袖又の市道で同市字塩干田の田中久夫さん(73)の軽トラックが、信号待ちで停止中の乗用車に追突。田中さんは胸などを強く打ち死亡した。
2005年11月21日
岩手・西和賀町長選挙
初代町長に旧沢内村長の高橋氏
旧湯田町と旧沢内村の合併で誕生した岩手県西和賀町の町長選挙は20日投票、即日開票が行われ、旧沢内村長の高橋繁氏(70)が、旧湯田町長の細井洋行氏(56)を破って当選、初代町長に選ばれた。高橋氏は旧沢内村の村是だった「生命尊重の理念」を訴え、保健、福祉、医療の充実を公約に掲げるともに、子育て日本一の町づくりなどをアピールした。
■高橋繁氏の経歴
岩手大学卒業。盛岡市立高松小、山岸小などの校長を経て、沢内村教育長。加藤昭男・沢内村長の急逝に伴う今年3月の沢内村長選挙において無投票で初当選。
■西和賀町長選挙の開票結果
当 3,143 高橋 繁 無新
2,816 細井洋行 無新
旧湯田町と旧沢内村の合併で誕生した岩手県西和賀町の町長選挙は20日投票、即日開票が行われ、旧沢内村長の高橋繁氏(70)が、旧湯田町長の細井洋行氏(56)を破って当選、初代町長に選ばれた。高橋氏は旧沢内村の村是だった「生命尊重の理念」を訴え、保健、福祉、医療の充実を公約に掲げるともに、子育て日本一の町づくりなどをアピールした。
■高橋繁氏の経歴
岩手大学卒業。盛岡市立高松小、山岸小などの校長を経て、沢内村教育長。加藤昭男・沢内村長の急逝に伴う今年3月の沢内村長選挙において無投票で初当選。
■西和賀町長選挙の開票結果
当 3,143 高橋 繁 無新
2,816 細井洋行 無新
2005年11月20日
滝沢村での女性怪死事件
発見された怪死体
昭和34年3月24日午後3時ごろ岩手郡滝沢村平蔵沢の空家でまぐさの上にうつ伏せになって死んでいる女の変死体が発見された。死因に不審がもたれるところから、盛岡署は他殺と断定し、捜査を開始した。
死体が発見された空家は四方が畑に囲まれた165平方メートルの一軒家、南方50メートルに大森宇吉さん宅、東方約100メートルに大森子子松宅があり、裏側は沢をへだて小高い山林になっている。空家は盛岡市八幡町100の小向忠蔵さんの所有で、死体発見者の堰合和吉さんが管理を頼まれ、空家の一部を借りてまぐさ置場に使っていた。
死体は9.9平方メートルのまぐさ置場の奥にうつぶせになり、北側に頭を向け両手をくの字に曲げて倒れていた。着衣はこげ茶の模様編のセーター、メリヤスシャツ、メリヤスのズボン下をはいており、左わき下に濃紺のズボンがくしゃくしゃになっていた。顔は人相が判別できないほど黒く焼けただれ、両手、モモにもやけどがあり、ことに手の指が炭化するほどひどく焼けただれていた。
死体のそばにあったズボンは下半分がボロボロに焼き切れ、劇薬のようなもので焼いたと推測された。素足だが、付近にははき物が見当たらず、別な場所から運んだものと推定された。特に不審が持たれたのはパンツの中と肌着の中にまぐさが一つかみほど入っており、ズボン下は全く焼けた形跡がないのにモモやカカト付近にヤケドがあるなど、不自然な点が多かった。
盛岡署は25日、20人の刑事を動員して部落21戸をはじめ村内をしらみつぶしに洗ったが、行方不明の若い女性はなく、また人相着衣に似た女を目撃した村民も現れなかった。同署は、県下各警察者に紹介し、最近の家出人を調査したが該当者はなかった。
不自然な火傷の跡
死体発見現場の綿密な検証によると、現場で殺害された形跡はなく、足の甲に引きずられたような跡が残っていること、ハダシのままであり、付近にははき物がないのことから、他から運んできたものと推定された。さらにまぐさ置場の1メートル四方の窓枠に何か物でこすった跡があり、新しい泥も付着していたことから、女性を窓から押し込んだとの見方も出た。
最も怪奇な事件と思われる点は、顔面がアゴの一部をのぞきヤケドを負っているのに頭髪がそっくり残っており、セーターも焼けた形跡がなく、モモ、スネなどがヤケドしているのにズボン下が焼けておらず、死後着せたものと思われることだ。
被害者の身長は152センチ、顔に多くのソバカスがあり、右耳下のアゴに大豆位のホクロがあるのが特徴。年齢は骨の固さなどからみて30歳前後と見られた。
一方、死因はヤケドは致命傷とは考えられず、心臓内の血液が鮮紅色で流動性を帯びているため、一酸化炭素を吸いこみ酸素を吸収できなくなって窒息死したものと思われるが断定できないという結論に達した。死亡した時間は23日夜から24日未明までの間と推定された。入歯、ムシ歯がなく血液はO型。以上のようなことが解剖から判った。
またマユ毛は焼けたのではなくカミソリでそってあり、水商売の女という見方も強まった。両側の裏の黒いよごれは土や泥ではなく、汚れた板の間などを歩いて付着したものと推定された。
衣類焼却跡を発見
同部落農業大森米吉さんが同月28日午前11時45分ごろ死体が発見された現場の空地から西北約600メートル離れた開墾畑に刈払いに出かけ、畑の北東のすみにタキ火した跡があるのを発見した。不審に思い灰の中をかき回したところ衣類の焼残りがあったので盛岡署に届け出た。
盛岡署員が急行して調べたところ、女のトッパーコートと思われるエリの一部と、タキ火の付近に風で飛ばされた2、3の布切れをみつけた。生地は薄ラシャのアヅキ色の水玉模様でほかにエンジ色のソックスの一部とハダ色のネッカチーフの一部もあった。灰の中からは長さ10センチぐらいのガマ口の口金が発見され、100円札が焼けた灰もあった。
さらに付近を捜したところ、焼跡から6、7メートル離れたとこトウモロコシのカラの下から黒ビニール製の女物サンダルを発見。灰は数日前に焼いたばかりの新しいもので、付近は林と原野ばかりで家がなく、地理を知っている者の仕業と推定される。サンダルはかなりはき古した品で、そう遠いところからサンダルを履いてきたとは思われない。
たき火の状況からみて女を殺した犯人が衣類や所持品など証拠となる品を周到に焼いたことがうかがえる。サンダルも焦げた形跡があり、捜査本部ではいったん焼こうとしたが火がつかなかったためあきらめてトウモロコシのカラの下に押しこんだと見られた。
たき火の場所は、死体の発見現場から約1.5キロ離れた鬼越部落に通じる山道のそばで、同開拓地の方から下がってくると、平蔵沢部落の最初の家が死体のあった空地であり、空家に入るまでだれにも見られない地形である。
このためこれまで考えられていた事件の中心人物が平蔵沢部落内にいるとの見方から鬼越、花平、沼森の各開拓地という線も出ている。いずれにしても着衣の一部や、サンダルなどが発見されたことにより、身元割り出しは容易になると見られ、盛岡署は懸命の聞き込み捜査を続けた。
それから5日経った4月3日、付近の山を捜索していた盛岡署員は、たき火跡から20メートル離れた林の中で、焼残りのナイロン製パイル織りの女物のエンジ色ソックスとスカーフの布片、スラックスの布片などを発見した。さらに綿密に調べたところ、木の根元に焼けちぢれた髪の毛も落ちてあり、死体を一時置いた形跡もあった。たき火跡からその場所まで点々と焼布がこぼれており、死体を運んだことも明かだった。
謎が謎を生む
曲がりくねった部落の道、一見普通の農家と見える空家、地理を知らない者が来るはずもない場所。焼け残りの服装の切れ端などから、被害者はショートヘア、銀色模様のサンダル、薄茶のトッパー、エンジのソックス、ハダ色ネッカチーフと想定されるが、村ではザラに見られるスタイルではなく、だれかが目撃したはずだと捜査当局は確信している。
それにしても行方不明の女であれば1週間以上も過ぎたのでそろそろ身元がわかるはず。あの女ではないかという者についてすでに100人以上調べたが、いずれも所在が確認されている。
体重45キロの被害者を遠くから運んだものとは考えられず、当時車のワダチもなかった。
犯行をくらますために、証拠となる着衣や所持品を焼いたものとみられるが、それにつけても死体を山林に捨てず、空家に捨てたのはなぜか。部落内に事件の何かを知っている者がいるに違いないと判断して、盛岡署員が毎日聞き込みしたが、部落民はあまり協力的ではなかった。
当初は平蔵沢部落の者か村内の者で、簡単に事件は解決するだろうとみられたが、3日たち一週間たっても身元が判らず、難事件の様相を呈してきた。事件現場は道路がこみいっており、空家は普通のカヤぶきの農家で、知らない人は空家とわからないほど。知らない者が行けるところではなく、地理に詳しい者が関係しているに違いないと捜査当局はにらんだ。ヤケドは何によるものか、死因は何か、どこで殺したのだろう、スラックスがボロボロになったのは?など、謎は謎を生んだ。
身元不明のまま時効成立
盛岡署は事件の解決は身元を割ることが先決だとして、スラックス、シャツ、トッパーコートの焼残り布、スカーフの切れ端、サンダルの出所などを追及したが、セーターもサンダルも2、3年前売られた品で製造元までわかったが、どの店でいつ誰に売ったか数量が多くて手掛りにならなかった。滝沢村、盛岡市を洗っても、身元の手掛りになる情報がなく、県警本部はさらに範囲を広げ、手配書15万枚を印刷して県下および全国に配布した。
この間4月中旬、盛岡市上田のバー女給が似ているというので、色めきたったが、偽名で宇都宮に生活していることがわかり、捜査は振り出しに。盛岡署には似ているという情報が続々と寄せられたが、いずれも人相、着衣、特徴が異なり、次々とはずれていった。
人相着衣をさらに正確に調べるため、死体を発掘して再調査したり、電気で殺害された可能性もあるため、岩手大学工学部鎌田助教授が死体を検分したり、事件は県民注目の的になったが、苦心の手配書も効果はなかった。また岩手医大細井講師は、ヤケドは生きているうちに高温度の火で焼かれたもので、死因はそのあと凍死したものだと見解を明らかにし、腸内にはコンブと麦飯があったこともわかった。
県警鑑識課は被害者の指紋をとり、前科者および行政指紋と照合したが、合致するものがなく、死体の顔写真を修正してモンタージュ写真も作製、3万枚を印刷して県下に配った。こうしてあらゆる手段方法で身元割出し捜査が続けられたが、ついに被害者の身元はわからず、数々の謎を残し、昭和49年3月24日午前零時ついに時効が成立した。
死因は凍死。18〜20歳の女性
死体の身元は警視庁を通じての家出人捜索でも判明せず、寄せられた603件、502人の情報からも割り出せなかった。38年には被害者の頭がい骨から当時としては科学捜査の先端をゆくスーパーポーズ復顔像を作り、ポスター42.000枚を全国に配布。さらに48年8月には5000枚のポスターを新たに作成、配布したが、被害者の身元発見には至らなかった。
一方、39年11月やっと死体解剖鑑定書が出たが、それによると▽18〜20歳の女性▽死亡時は空腹▽薬物検出なし▽致命的外傷なし▽ヤケドは炎による▽農婦などの重労働者ではないーなどがわかり、死因は凍死だった。ということは、殺人事件というよりも、女性が何らかの事故に巻き込まれ、瀕死の状態のまま放置されたという可能性も出てきた。死体発見現場のまぐさ小屋に死体を隠し、後で別の場所に運ぶ計画だったのかもしれない。
この事件の疑問は、やけどそのものが不自然な焼け方であること。当時、現場付近は泥んこ状態で死体は運ばれた可能性が強いこと、しかも同地区には地理的にわかっていなければ入ることができないこと、この女性の目撃者が全くないことーなど、ミステリーじみた点が多い。
この事件に投入された捜査員は21.000人。被害者の霊は13回忌の47年、現場となった平蔵沢の共同墓地に墓が建立され、そこに眠っている。戒名は「幽心妙香大姉」。
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この身元不明の女性について情報をお持ちの方はご連絡ください。
昭和34年3月24日午後3時ごろ岩手郡滝沢村平蔵沢の空家でまぐさの上にうつ伏せになって死んでいる女の変死体が発見された。死因に不審がもたれるところから、盛岡署は他殺と断定し、捜査を開始した。
死体が発見された空家は四方が畑に囲まれた165平方メートルの一軒家、南方50メートルに大森宇吉さん宅、東方約100メートルに大森子子松宅があり、裏側は沢をへだて小高い山林になっている。空家は盛岡市八幡町100の小向忠蔵さんの所有で、死体発見者の堰合和吉さんが管理を頼まれ、空家の一部を借りてまぐさ置場に使っていた。
死体は9.9平方メートルのまぐさ置場の奥にうつぶせになり、北側に頭を向け両手をくの字に曲げて倒れていた。着衣はこげ茶の模様編のセーター、メリヤスシャツ、メリヤスのズボン下をはいており、左わき下に濃紺のズボンがくしゃくしゃになっていた。顔は人相が判別できないほど黒く焼けただれ、両手、モモにもやけどがあり、ことに手の指が炭化するほどひどく焼けただれていた。
死体のそばにあったズボンは下半分がボロボロに焼き切れ、劇薬のようなもので焼いたと推測された。素足だが、付近にははき物が見当たらず、別な場所から運んだものと推定された。特に不審が持たれたのはパンツの中と肌着の中にまぐさが一つかみほど入っており、ズボン下は全く焼けた形跡がないのにモモやカカト付近にヤケドがあるなど、不自然な点が多かった。
盛岡署は25日、20人の刑事を動員して部落21戸をはじめ村内をしらみつぶしに洗ったが、行方不明の若い女性はなく、また人相着衣に似た女を目撃した村民も現れなかった。同署は、県下各警察者に紹介し、最近の家出人を調査したが該当者はなかった。
不自然な火傷の跡
死体発見現場の綿密な検証によると、現場で殺害された形跡はなく、足の甲に引きずられたような跡が残っていること、ハダシのままであり、付近にははき物がないのことから、他から運んできたものと推定された。さらにまぐさ置場の1メートル四方の窓枠に何か物でこすった跡があり、新しい泥も付着していたことから、女性を窓から押し込んだとの見方も出た。
最も怪奇な事件と思われる点は、顔面がアゴの一部をのぞきヤケドを負っているのに頭髪がそっくり残っており、セーターも焼けた形跡がなく、モモ、スネなどがヤケドしているのにズボン下が焼けておらず、死後着せたものと思われることだ。
被害者の身長は152センチ、顔に多くのソバカスがあり、右耳下のアゴに大豆位のホクロがあるのが特徴。年齢は骨の固さなどからみて30歳前後と見られた。
一方、死因はヤケドは致命傷とは考えられず、心臓内の血液が鮮紅色で流動性を帯びているため、一酸化炭素を吸いこみ酸素を吸収できなくなって窒息死したものと思われるが断定できないという結論に達した。死亡した時間は23日夜から24日未明までの間と推定された。入歯、ムシ歯がなく血液はO型。以上のようなことが解剖から判った。
またマユ毛は焼けたのではなくカミソリでそってあり、水商売の女という見方も強まった。両側の裏の黒いよごれは土や泥ではなく、汚れた板の間などを歩いて付着したものと推定された。
衣類焼却跡を発見
同部落農業大森米吉さんが同月28日午前11時45分ごろ死体が発見された現場の空地から西北約600メートル離れた開墾畑に刈払いに出かけ、畑の北東のすみにタキ火した跡があるのを発見した。不審に思い灰の中をかき回したところ衣類の焼残りがあったので盛岡署に届け出た。
盛岡署員が急行して調べたところ、女のトッパーコートと思われるエリの一部と、タキ火の付近に風で飛ばされた2、3の布切れをみつけた。生地は薄ラシャのアヅキ色の水玉模様でほかにエンジ色のソックスの一部とハダ色のネッカチーフの一部もあった。灰の中からは長さ10センチぐらいのガマ口の口金が発見され、100円札が焼けた灰もあった。
さらに付近を捜したところ、焼跡から6、7メートル離れたとこトウモロコシのカラの下から黒ビニール製の女物サンダルを発見。灰は数日前に焼いたばかりの新しいもので、付近は林と原野ばかりで家がなく、地理を知っている者の仕業と推定される。サンダルはかなりはき古した品で、そう遠いところからサンダルを履いてきたとは思われない。
たき火の状況からみて女を殺した犯人が衣類や所持品など証拠となる品を周到に焼いたことがうかがえる。サンダルも焦げた形跡があり、捜査本部ではいったん焼こうとしたが火がつかなかったためあきらめてトウモロコシのカラの下に押しこんだと見られた。
たき火の場所は、死体の発見現場から約1.5キロ離れた鬼越部落に通じる山道のそばで、同開拓地の方から下がってくると、平蔵沢部落の最初の家が死体のあった空地であり、空家に入るまでだれにも見られない地形である。
このためこれまで考えられていた事件の中心人物が平蔵沢部落内にいるとの見方から鬼越、花平、沼森の各開拓地という線も出ている。いずれにしても着衣の一部や、サンダルなどが発見されたことにより、身元割り出しは容易になると見られ、盛岡署は懸命の聞き込み捜査を続けた。
それから5日経った4月3日、付近の山を捜索していた盛岡署員は、たき火跡から20メートル離れた林の中で、焼残りのナイロン製パイル織りの女物のエンジ色ソックスとスカーフの布片、スラックスの布片などを発見した。さらに綿密に調べたところ、木の根元に焼けちぢれた髪の毛も落ちてあり、死体を一時置いた形跡もあった。たき火跡からその場所まで点々と焼布がこぼれており、死体を運んだことも明かだった。
謎が謎を生む
曲がりくねった部落の道、一見普通の農家と見える空家、地理を知らない者が来るはずもない場所。焼け残りの服装の切れ端などから、被害者はショートヘア、銀色模様のサンダル、薄茶のトッパー、エンジのソックス、ハダ色ネッカチーフと想定されるが、村ではザラに見られるスタイルではなく、だれかが目撃したはずだと捜査当局は確信している。
それにしても行方不明の女であれば1週間以上も過ぎたのでそろそろ身元がわかるはず。あの女ではないかという者についてすでに100人以上調べたが、いずれも所在が確認されている。
体重45キロの被害者を遠くから運んだものとは考えられず、当時車のワダチもなかった。
犯行をくらますために、証拠となる着衣や所持品を焼いたものとみられるが、それにつけても死体を山林に捨てず、空家に捨てたのはなぜか。部落内に事件の何かを知っている者がいるに違いないと判断して、盛岡署員が毎日聞き込みしたが、部落民はあまり協力的ではなかった。
当初は平蔵沢部落の者か村内の者で、簡単に事件は解決するだろうとみられたが、3日たち一週間たっても身元が判らず、難事件の様相を呈してきた。事件現場は道路がこみいっており、空家は普通のカヤぶきの農家で、知らない人は空家とわからないほど。知らない者が行けるところではなく、地理に詳しい者が関係しているに違いないと捜査当局はにらんだ。ヤケドは何によるものか、死因は何か、どこで殺したのだろう、スラックスがボロボロになったのは?など、謎は謎を生んだ。
身元不明のまま時効成立
盛岡署は事件の解決は身元を割ることが先決だとして、スラックス、シャツ、トッパーコートの焼残り布、スカーフの切れ端、サンダルの出所などを追及したが、セーターもサンダルも2、3年前売られた品で製造元までわかったが、どの店でいつ誰に売ったか数量が多くて手掛りにならなかった。滝沢村、盛岡市を洗っても、身元の手掛りになる情報がなく、県警本部はさらに範囲を広げ、手配書15万枚を印刷して県下および全国に配布した。
この間4月中旬、盛岡市上田のバー女給が似ているというので、色めきたったが、偽名で宇都宮に生活していることがわかり、捜査は振り出しに。盛岡署には似ているという情報が続々と寄せられたが、いずれも人相、着衣、特徴が異なり、次々とはずれていった。
人相着衣をさらに正確に調べるため、死体を発掘して再調査したり、電気で殺害された可能性もあるため、岩手大学工学部鎌田助教授が死体を検分したり、事件は県民注目の的になったが、苦心の手配書も効果はなかった。また岩手医大細井講師は、ヤケドは生きているうちに高温度の火で焼かれたもので、死因はそのあと凍死したものだと見解を明らかにし、腸内にはコンブと麦飯があったこともわかった。
県警鑑識課は被害者の指紋をとり、前科者および行政指紋と照合したが、合致するものがなく、死体の顔写真を修正してモンタージュ写真も作製、3万枚を印刷して県下に配った。こうしてあらゆる手段方法で身元割出し捜査が続けられたが、ついに被害者の身元はわからず、数々の謎を残し、昭和49年3月24日午前零時ついに時効が成立した。
死因は凍死。18〜20歳の女性
死体の身元は警視庁を通じての家出人捜索でも判明せず、寄せられた603件、502人の情報からも割り出せなかった。38年には被害者の頭がい骨から当時としては科学捜査の先端をゆくスーパーポーズ復顔像を作り、ポスター42.000枚を全国に配布。さらに48年8月には5000枚のポスターを新たに作成、配布したが、被害者の身元発見には至らなかった。
一方、39年11月やっと死体解剖鑑定書が出たが、それによると▽18〜20歳の女性▽死亡時は空腹▽薬物検出なし▽致命的外傷なし▽ヤケドは炎による▽農婦などの重労働者ではないーなどがわかり、死因は凍死だった。ということは、殺人事件というよりも、女性が何らかの事故に巻き込まれ、瀕死の状態のまま放置されたという可能性も出てきた。死体発見現場のまぐさ小屋に死体を隠し、後で別の場所に運ぶ計画だったのかもしれない。
この事件の疑問は、やけどそのものが不自然な焼け方であること。当時、現場付近は泥んこ状態で死体は運ばれた可能性が強いこと、しかも同地区には地理的にわかっていなければ入ることができないこと、この女性の目撃者が全くないことーなど、ミステリーじみた点が多い。
この事件に投入された捜査員は21.000人。被害者の霊は13回忌の47年、現場となった平蔵沢の共同墓地に墓が建立され、そこに眠っている。戒名は「幽心妙香大姉」。
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2005年11月08日
中尊寺・国宝ケマン盗難事件
こつ然と消えた金色堂の国宝
物証乏しく捜査は難航
奥州藤原三代の栄華をいまに伝える平泉。金蒔絵、極彩色など藤原時代の工芸の粋を集めた金色堂は、わが国の国宝第1号であり、松尾芭蕉の「五月雨の降りのこしてや光堂」の句でも知られる。堂の内外を黒漆で塗り、その上に全て金箔を押し、柱や須弥壇には金銀珠玉をちりばめ極楽浄土をあらわし、 内部中央壇の中には清衡、基衡、秀衡の遺体(ミイラ)と泰衡の首級が納められている。
この金色堂を舞台に中尊寺全山を揺るがす大事件が発生したのは、昭和27(1952)年10月27日のこと。その日午前10時ごろ、金色堂のトビラを開いた寺僧は一瞬、目を疑った。内陣の仏像などが倒され、内陣長押(なげし)につるしてあった国宝の金銅ケマン(華蔓)4枚と、観音像の宝冠がこつ然と姿を消していたのである。何者かに盗まれたことは明らかだった。
ケマンは仏を荘厳する花輪で、盗まれたものは縦横とも約30センチ、うちわのような形をした金銅の板である。12世紀初めの作で金属のケマンとして日本最古。藤原時代の特徴である鋤彫技法を用い細部まで精巧に彫り上げた最高傑作といわれる芸術品だ。
国宝の盗難事件は全国的に大きな反響をよび捜査の行方に関心が高まるなか、警察は仏像から検出された指紋などを手掛かりに必死の捜査を続け、また中尊寺も「犯人逮捕と現物発見者に賞金10万円」という異例の懸賞金により情報の提供を全国に呼びかけた。しかし物証に乏しく犯人に結びつく有力な情報もないまま、1カ月、2カ月と時がたち、一時は迷宮入りを思わせたのである。
古物商グループ3人を逮捕
ところが、事件発生から半年後の翌年春、東京で盗まれたケマンが発見されたことから、事件は急展開し一気に解決に向かう。4月14日、ある中年の男が東京都台東区にあるK興信所のY所長のもとを訪ね、盗品である国宝ケマン二枚を持ち込んだ。「もし国宝が国外に持ち出されては国家の大きな損失になる」と思ったY氏は17日になって警察に通報し、これが事件解決の端緒となる。
ケマンを持ち込んだ男というのは、稗貫郡湯本村(現・西和賀町)の木材ブローカーO(53)。Oは21日に逮捕されたが、この日の昼すぎには花巻町(現・花巻市)の古物商M(55)が残るケマン2枚を持ち花巻地区署(現・花巻署)に出頭。それに先立ってMは、捜査が身辺に迫るなか、ケマン2枚を持参し中尊寺を訪れ、「これは中尊寺のものですか」と鑑定を依頼するなど罪を免れるための一芝居を打ったりもしていた。さらにOの自供により、主犯として稗貫郡内川目村(現・大迫町)の古物商KことT(54)が23日になって逮捕された。
一関地区署(現・一関署)の捜査によると、Tは犯行前日の午後4時半ごろ、観光客にまぎれて金色堂に入り、トビラが閉じるのを待って犯行に及び、翌日朝、トビラが開かれるとともに再び観光客にまぎれ、何くわぬ顔で出ていったという。そのあとTは知り合いのOにケマンの売買を依頼し、Oは買い手を求めて上京した。
容疑を否認しつづけた主犯の男
事件は盛岡地裁一関支部の公判に付されたが、OとMはあっさり罪状を認めたものの、Tは逮捕以来一貫して否認を続け、Tは自分に不利な証言をするO、Mがをにらみつけ、脅迫的な言葉を投げつけたりもした。検察側は当初からTが盗犯に間違いないとしながらも、なかなか確証がつかずにいた。
しかし29年5月1日の判決で裁判長はO、Mなどの証言に加えて、Tが何一つアリバイを立証できなかったこと、さらにTが逃げる際に山の中を歩いて顔一面ウルシにかぶれていたことなどから、実行犯と断定した。
注目の判決は次のように言い渡された。▽T、窃盗、盗品寄蔵、重要文化財保護法違反、懲役4年(求刑同7年)▽O、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)▽M、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)。この判決でOは服役したが、TとMの二人は判決を不服として仙台高裁に控訴。仙台高裁は30年6月13日、Mの控訴を棄却する一方、Tに対しては懲役3年を言い渡した。さらに二人とも上告したが、いずれも上告棄却の判決が下された。
この事件は中尊寺を大いにあわてさせたが、盗まれたケマン4枚は無傷のまま返り、そのうえ中尊寺の名を全国に知らせるのに役立ったことは皮肉な結果であった。
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物証乏しく捜査は難航
奥州藤原三代の栄華をいまに伝える平泉。金蒔絵、極彩色など藤原時代の工芸の粋を集めた金色堂は、わが国の国宝第1号であり、松尾芭蕉の「五月雨の降りのこしてや光堂」の句でも知られる。堂の内外を黒漆で塗り、その上に全て金箔を押し、柱や須弥壇には金銀珠玉をちりばめ極楽浄土をあらわし、 内部中央壇の中には清衡、基衡、秀衡の遺体(ミイラ)と泰衡の首級が納められている。
この金色堂を舞台に中尊寺全山を揺るがす大事件が発生したのは、昭和27(1952)年10月27日のこと。その日午前10時ごろ、金色堂のトビラを開いた寺僧は一瞬、目を疑った。内陣の仏像などが倒され、内陣長押(なげし)につるしてあった国宝の金銅ケマン(華蔓)4枚と、観音像の宝冠がこつ然と姿を消していたのである。何者かに盗まれたことは明らかだった。
ケマンは仏を荘厳する花輪で、盗まれたものは縦横とも約30センチ、うちわのような形をした金銅の板である。12世紀初めの作で金属のケマンとして日本最古。藤原時代の特徴である鋤彫技法を用い細部まで精巧に彫り上げた最高傑作といわれる芸術品だ。
国宝の盗難事件は全国的に大きな反響をよび捜査の行方に関心が高まるなか、警察は仏像から検出された指紋などを手掛かりに必死の捜査を続け、また中尊寺も「犯人逮捕と現物発見者に賞金10万円」という異例の懸賞金により情報の提供を全国に呼びかけた。しかし物証に乏しく犯人に結びつく有力な情報もないまま、1カ月、2カ月と時がたち、一時は迷宮入りを思わせたのである。
古物商グループ3人を逮捕
ところが、事件発生から半年後の翌年春、東京で盗まれたケマンが発見されたことから、事件は急展開し一気に解決に向かう。4月14日、ある中年の男が東京都台東区にあるK興信所のY所長のもとを訪ね、盗品である国宝ケマン二枚を持ち込んだ。「もし国宝が国外に持ち出されては国家の大きな損失になる」と思ったY氏は17日になって警察に通報し、これが事件解決の端緒となる。
ケマンを持ち込んだ男というのは、稗貫郡湯本村(現・西和賀町)の木材ブローカーO(53)。Oは21日に逮捕されたが、この日の昼すぎには花巻町(現・花巻市)の古物商M(55)が残るケマン2枚を持ち花巻地区署(現・花巻署)に出頭。それに先立ってMは、捜査が身辺に迫るなか、ケマン2枚を持参し中尊寺を訪れ、「これは中尊寺のものですか」と鑑定を依頼するなど罪を免れるための一芝居を打ったりもしていた。さらにOの自供により、主犯として稗貫郡内川目村(現・大迫町)の古物商KことT(54)が23日になって逮捕された。
一関地区署(現・一関署)の捜査によると、Tは犯行前日の午後4時半ごろ、観光客にまぎれて金色堂に入り、トビラが閉じるのを待って犯行に及び、翌日朝、トビラが開かれるとともに再び観光客にまぎれ、何くわぬ顔で出ていったという。そのあとTは知り合いのOにケマンの売買を依頼し、Oは買い手を求めて上京した。
容疑を否認しつづけた主犯の男
事件は盛岡地裁一関支部の公判に付されたが、OとMはあっさり罪状を認めたものの、Tは逮捕以来一貫して否認を続け、Tは自分に不利な証言をするO、Mがをにらみつけ、脅迫的な言葉を投げつけたりもした。検察側は当初からTが盗犯に間違いないとしながらも、なかなか確証がつかずにいた。
しかし29年5月1日の判決で裁判長はO、Mなどの証言に加えて、Tが何一つアリバイを立証できなかったこと、さらにTが逃げる際に山の中を歩いて顔一面ウルシにかぶれていたことなどから、実行犯と断定した。
注目の判決は次のように言い渡された。▽T、窃盗、盗品寄蔵、重要文化財保護法違反、懲役4年(求刑同7年)▽O、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)▽M、盗品故買、懲役2年(求刑同3年)。この判決でOは服役したが、TとMの二人は判決を不服として仙台高裁に控訴。仙台高裁は30年6月13日、Mの控訴を棄却する一方、Tに対しては懲役3年を言い渡した。さらに二人とも上告したが、いずれも上告棄却の判決が下された。
この事件は中尊寺を大いにあわてさせたが、盗まれたケマン4枚は無傷のまま返り、そのうえ中尊寺の名を全国に知らせるのに役立ったことは皮肉な結果であった。
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2005年11月05日
松園、小鳥沢界わい
松園ニュータウンは、最初の120世帯が入居し新しい市街地として産声を上げてから30数年が経過。雑木林や採草地が広がる原野には、その後サンタウン松園、小鳥沢ニュータウンの造成が続き、いまでは北東北最大の人口規模を誇る大団地として大きく発展を遂げている。

紅葉の北松園
東北最大規模の住宅団地として誕生
盛岡市の人口増加と住宅難に対応するため、県住宅供給公社は昭和44(1969)年、東北最大規模の住宅団地「松園ニュータウン」の開発を計画。市中心部から北へ約7キロの東黒石野、小鳥沢にまたがる山林118ヘクタールを対象に翌45年から造成を開始した。当時のマイホームブームに乗って順調に分譲が進むなか、47年7月には最初の120世帯が入居し、55年には第1期工事が完了、戸数4千戸、人口1万人の新しい市街地が誕生した。松園の名は、県木のナンブアカマツにちなんで命名されたものだ。
その後県住宅供給公社は、同ニュータウン北隣の小鳥沢の山林83ヘクタールを取得し、61年からサンタウン松園の造成を開始。またサンタウン松園の北側では、民間大手業者が40ヘクタールを対象に小鳥沢ニュータウンの開発を計画し、58年造成に着手した。
現在、松園、小鳥沢地区では、松園4044世帯、サンタウン松園1389世帯、小鳥沢ニュータウン855世帯の合計6288世帯、1万8360人が暮らしている。
松園に最初の家族が入居した昭和47年当時は、公共施設や店舗、病院など生活関連施設が乏しいうえに交通の便が悪く、日常生活にも不便をきたす陸の孤島のような状態だった。しかし今日、恵まれた自然環境に加えて、道路、公園、学校など公共施設や大型スーパー、病院などの施設も充実し、目を見張るばかりの発展を遂げている。
緑豊かな四十四田ダム周辺
四十四田ダムは、北上川治水五大ダムの一つとして計画され、37年の着工から6年の歳月をかけて43年に完成した。洪水調整のほか、田畑のかんがい、発電のための多目的ダムで、県庁所在地に築かれた全国でも珍しいダムである。毎年7月に行われる北上川ゴムボート川下り大会は、ここをスタート地点に行われる。
同ダムの完成以降、周辺では大規模な開発が行われていないことから、水辺や森など貴重な里山の自然が残っており、多種多彩な動植物が棲息する自然の楽園となっている。多くの住民が暮らす大団地が近くにあるとは信じられないほどだ。
江戸から松前(北海道)に向かう奥州街道が通っていた松園、小鳥沢。ダムの完成によってできた湖は、岩手山の美しい山容を映すことから南部片富士湖と呼ばれるが、この湖の下をかつて同街道が通っていたことを知る人は多くない。ダム湖畔の東側を通る村道黒石野門前寺線には、人や物資の往来でにぎわった奥州街道の歴史を物語る貴重な小野松一里塚(県指定文化財)が残る。
奥州街道として歴史を刻んだ同村道は、カーブが多く砂利道だったが、県は平成八年から拡幅改良工事を進め、これまでに観音橋の完成などにより道路状況が大幅に改善された。現在工事中の小野橋も近く完成することから、同村道は松園と玉山村を結ぶ重要ルートとして交通量がいっきに増加しそうだ。観音橋や小野松橋の名前は、近くにある小野松一里塚と小野松観音にちなんで名付けられたもので、当時の街道のにぎわいをそっと語りかけてくれる。

高台の公園から見た四十四田ダムと岩手山
都会のオアシス、市営小鹿牧場
四十四田ダム周辺には、県制百周年を記念して55年に県立博物館が開館。地質時代から現代にいたる地質、考古、歴史、民俗、生物などの資料が多数展示され、岩手県の自然と文化を知ることができる。またダムのほとりには盛岡ドミニカン修道院があり、院内では祈りや思索、労働をしながら生涯を神に捧げた修道女たちが静かに暮らしている。
四十四田ダムを遠くに見下ろす高台には、市営小鹿牧場がある。牧場の名前は、かつて所有者だった二人の実業家の頭文字からとったものだ。一人は明治、大正時代に活躍した盛岡市の銀行家小野慶蔵氏、もう一人は鹿島建設を業界トップに押し上げた鹿島守之助氏。42年に盛岡市に寄贈された。23ヘクタールの広大な敷地を有し、現在は一部が小鹿公園として市民に開放されている。周囲をめぐる散策路や岩手山などを望む展望台が整備されており、野鳥が羽を休める豊かな自然のやすらぎを求めて訪れる市民が絶えない。大団地に隣り合う別世界の自然は大きな魅力である。
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盛岡ドミニカン修道院

紅葉の北松園
東北最大規模の住宅団地として誕生
盛岡市の人口増加と住宅難に対応するため、県住宅供給公社は昭和44(1969)年、東北最大規模の住宅団地「松園ニュータウン」の開発を計画。市中心部から北へ約7キロの東黒石野、小鳥沢にまたがる山林118ヘクタールを対象に翌45年から造成を開始した。当時のマイホームブームに乗って順調に分譲が進むなか、47年7月には最初の120世帯が入居し、55年には第1期工事が完了、戸数4千戸、人口1万人の新しい市街地が誕生した。松園の名は、県木のナンブアカマツにちなんで命名されたものだ。
その後県住宅供給公社は、同ニュータウン北隣の小鳥沢の山林83ヘクタールを取得し、61年からサンタウン松園の造成を開始。またサンタウン松園の北側では、民間大手業者が40ヘクタールを対象に小鳥沢ニュータウンの開発を計画し、58年造成に着手した。
現在、松園、小鳥沢地区では、松園4044世帯、サンタウン松園1389世帯、小鳥沢ニュータウン855世帯の合計6288世帯、1万8360人が暮らしている。
松園に最初の家族が入居した昭和47年当時は、公共施設や店舗、病院など生活関連施設が乏しいうえに交通の便が悪く、日常生活にも不便をきたす陸の孤島のような状態だった。しかし今日、恵まれた自然環境に加えて、道路、公園、学校など公共施設や大型スーパー、病院などの施設も充実し、目を見張るばかりの発展を遂げている。
緑豊かな四十四田ダム周辺
四十四田ダムは、北上川治水五大ダムの一つとして計画され、37年の着工から6年の歳月をかけて43年に完成した。洪水調整のほか、田畑のかんがい、発電のための多目的ダムで、県庁所在地に築かれた全国でも珍しいダムである。毎年7月に行われる北上川ゴムボート川下り大会は、ここをスタート地点に行われる。
同ダムの完成以降、周辺では大規模な開発が行われていないことから、水辺や森など貴重な里山の自然が残っており、多種多彩な動植物が棲息する自然の楽園となっている。多くの住民が暮らす大団地が近くにあるとは信じられないほどだ。
江戸から松前(北海道)に向かう奥州街道が通っていた松園、小鳥沢。ダムの完成によってできた湖は、岩手山の美しい山容を映すことから南部片富士湖と呼ばれるが、この湖の下をかつて同街道が通っていたことを知る人は多くない。ダム湖畔の東側を通る村道黒石野門前寺線には、人や物資の往来でにぎわった奥州街道の歴史を物語る貴重な小野松一里塚(県指定文化財)が残る。
奥州街道として歴史を刻んだ同村道は、カーブが多く砂利道だったが、県は平成八年から拡幅改良工事を進め、これまでに観音橋の完成などにより道路状況が大幅に改善された。現在工事中の小野橋も近く完成することから、同村道は松園と玉山村を結ぶ重要ルートとして交通量がいっきに増加しそうだ。観音橋や小野松橋の名前は、近くにある小野松一里塚と小野松観音にちなんで名付けられたもので、当時の街道のにぎわいをそっと語りかけてくれる。

高台の公園から見た四十四田ダムと岩手山
都会のオアシス、市営小鹿牧場
四十四田ダム周辺には、県制百周年を記念して55年に県立博物館が開館。地質時代から現代にいたる地質、考古、歴史、民俗、生物などの資料が多数展示され、岩手県の自然と文化を知ることができる。またダムのほとりには盛岡ドミニカン修道院があり、院内では祈りや思索、労働をしながら生涯を神に捧げた修道女たちが静かに暮らしている。
四十四田ダムを遠くに見下ろす高台には、市営小鹿牧場がある。牧場の名前は、かつて所有者だった二人の実業家の頭文字からとったものだ。一人は明治、大正時代に活躍した盛岡市の銀行家小野慶蔵氏、もう一人は鹿島建設を業界トップに押し上げた鹿島守之助氏。42年に盛岡市に寄贈された。23ヘクタールの広大な敷地を有し、現在は一部が小鹿公園として市民に開放されている。周囲をめぐる散策路や岩手山などを望む展望台が整備されており、野鳥が羽を休める豊かな自然のやすらぎを求めて訪れる市民が絶えない。大団地に隣り合う別世界の自然は大きな魅力である。
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盛岡ドミニカン修道院
2005年11月03日
選挙が終わり、テレビは北朝鮮報道一色に!?
雪崩を打って登場、北朝鮮関連番組
NHKが言うところの「郵政民営化の是非を問う」総選挙が終わってから、北朝鮮関連の番組が雪崩を打って民放テレビに登場している。
この手の番組をひんぱんに放送しているのが、ザ・サンデー(日曜日午前8時〜、日本テレビ)とスクランブル(月から金曜日午前11時30分〜、テレビ朝日)。新聞のテレビ欄で北朝鮮番組を振り返ると、ザ・サンデーでは10月23日に「脱北の母」、スクランブルでは10月6日に「北朝鮮に"亡命"3年…北川和美さんを独占激撮」を放送。スクランブルでは11月3日にも同じ北川和美さんのインタビューをオンエアしていた。
そのほか新聞のテレビ欄で確認したものだけでも、「北朝鮮終わりなき闇 現地潜入で徹底追跡!!"マオカ3女性拉致"27年目の真実」(11月3日午前8時〜、テレビ朝日・モーニング)、「拉致被害者に届け!北朝鮮へ家族の声放送」(10月4日午前8時〜、同)、「拉致被害者に届け…北向けラジオ放送開始」(10月31日午前5時30分〜、TBS・みのもんた朝ズバッ!)、「沈黙を破りジェンキンス氏が語る北朝鮮と私生活の真実」(10月12日午前8時〜、日本テレビ・情報ツウ)などが放送されている。テレビ欄に紹介されていないものも多いので、ここ1カ月の短い期間だけでも相当の数の北朝鮮関連番組が放送されたはずである。
この番組の洪水に、何か意図的なものを感じるのは私だけだろうか。飢餓に苦しむ国民なら、中国にも東南アジアにも、そしてアフリカにも大勢いる。さらに爆発的に増加しているエイズがその貧困に拍車をかけている。
先日のハリケーン被害で明らかになったように、アメリカの貧富の差はひどい状況にある。アメリカでは、国民の8人に1人が年収200万円以下で暮らし、公的な健康保険サービスを受けられない国民は4500万人に達する。食うや食わずの生活を余儀なくされ、将来に何の希望も持てない国民が大勢いるのが、あの世界一リッチなアメリカの真実の姿なのである。
国内に目を転じれば、月々4、5万円の国民年金だけで暮らすお年寄り、そうした年金さえも掛け金が足りずにもらえない無年金者、大都会のアパートの片隅で一人死を待つ孤独な高齢者など、憲法で保障されている最低限の生活さえおぼつかない国民が実に多いのだ。そこには北朝鮮のことをとやかくいえない悲惨な現実がある。
そして年間3万5千人にも及ぶ自殺者。この数は、1年間で交通事故で亡くなる人の実に5倍、1日あたり約100人という尋常ではない数だ。そのうち失業、借金など経済苦で自らの命を絶つ人は1万5千人を超えているという。
ローカル新聞の社会面には、交通死亡事故のニュースが毎日のように取り上げられているが、その5倍も数が多い自殺者のことは一行もふれられていない。集団自殺や一家心中でない限り、自殺者のことは表に出ない。自殺者の数はその社会を映す鏡のような存在だ。豊かではない日本の偽らざる現実を伝えることは新聞の使命ではなかろうか。
北朝鮮の"国内問題"を熱心に報道する前にもっとやるべきことがあるはずだ。わずかばかりの年金をたよりに暮らすお年寄りのこと、多くの国民を自殺に追い込む理不尽な社会のことなど、よその国のことよりも国内の問題にもっと目を向けてもらいたい。
北朝鮮の社会の現実がどうなのかは実際にこの目で見たわけではないので分からないが、第二次大戦中でも日本の多くの国民が普通の人々であったのと同じように、北朝鮮の国民の大多数も平和と家族を愛する普通の人々であることを信じたい。戦時中の日本と同じで国家体制がノーマルではないだけである。国民の恐怖心を煽り北朝鮮への強硬論へと駆り立てるのはやめてもらいたい。
NHKが言うところの「郵政民営化の是非を問う」総選挙が終わってから、北朝鮮関連の番組が雪崩を打って民放テレビに登場している。
この手の番組をひんぱんに放送しているのが、ザ・サンデー(日曜日午前8時〜、日本テレビ)とスクランブル(月から金曜日午前11時30分〜、テレビ朝日)。新聞のテレビ欄で北朝鮮番組を振り返ると、ザ・サンデーでは10月23日に「脱北の母」、スクランブルでは10月6日に「北朝鮮に"亡命"3年…北川和美さんを独占激撮」を放送。スクランブルでは11月3日にも同じ北川和美さんのインタビューをオンエアしていた。
そのほか新聞のテレビ欄で確認したものだけでも、「北朝鮮終わりなき闇 現地潜入で徹底追跡!!"マオカ3女性拉致"27年目の真実」(11月3日午前8時〜、テレビ朝日・モーニング)、「拉致被害者に届け!北朝鮮へ家族の声放送」(10月4日午前8時〜、同)、「拉致被害者に届け…北向けラジオ放送開始」(10月31日午前5時30分〜、TBS・みのもんた朝ズバッ!)、「沈黙を破りジェンキンス氏が語る北朝鮮と私生活の真実」(10月12日午前8時〜、日本テレビ・情報ツウ)などが放送されている。テレビ欄に紹介されていないものも多いので、ここ1カ月の短い期間だけでも相当の数の北朝鮮関連番組が放送されたはずである。
この番組の洪水に、何か意図的なものを感じるのは私だけだろうか。飢餓に苦しむ国民なら、中国にも東南アジアにも、そしてアフリカにも大勢いる。さらに爆発的に増加しているエイズがその貧困に拍車をかけている。
先日のハリケーン被害で明らかになったように、アメリカの貧富の差はひどい状況にある。アメリカでは、国民の8人に1人が年収200万円以下で暮らし、公的な健康保険サービスを受けられない国民は4500万人に達する。食うや食わずの生活を余儀なくされ、将来に何の希望も持てない国民が大勢いるのが、あの世界一リッチなアメリカの真実の姿なのである。
国内に目を転じれば、月々4、5万円の国民年金だけで暮らすお年寄り、そうした年金さえも掛け金が足りずにもらえない無年金者、大都会のアパートの片隅で一人死を待つ孤独な高齢者など、憲法で保障されている最低限の生活さえおぼつかない国民が実に多いのだ。そこには北朝鮮のことをとやかくいえない悲惨な現実がある。
そして年間3万5千人にも及ぶ自殺者。この数は、1年間で交通事故で亡くなる人の実に5倍、1日あたり約100人という尋常ではない数だ。そのうち失業、借金など経済苦で自らの命を絶つ人は1万5千人を超えているという。
ローカル新聞の社会面には、交通死亡事故のニュースが毎日のように取り上げられているが、その5倍も数が多い自殺者のことは一行もふれられていない。集団自殺や一家心中でない限り、自殺者のことは表に出ない。自殺者の数はその社会を映す鏡のような存在だ。豊かではない日本の偽らざる現実を伝えることは新聞の使命ではなかろうか。
北朝鮮の"国内問題"を熱心に報道する前にもっとやるべきことがあるはずだ。わずかばかりの年金をたよりに暮らすお年寄りのこと、多くの国民を自殺に追い込む理不尽な社会のことなど、よその国のことよりも国内の問題にもっと目を向けてもらいたい。
北朝鮮の社会の現実がどうなのかは実際にこの目で見たわけではないので分からないが、第二次大戦中でも日本の多くの国民が普通の人々であったのと同じように、北朝鮮の国民の大多数も平和と家族を愛する普通の人々であることを信じたい。戦時中の日本と同じで国家体制がノーマルではないだけである。国民の恐怖心を煽り北朝鮮への強硬論へと駆り立てるのはやめてもらいたい。
2005年11月02日
角館町(現・仙北市)
新たに築いた陣屋と町割
県内陸部、仙北平野の北端に位置し、奥羽山脈に連なる小高い山に三方を囲まれており、東は和賀岳を望んで岩手県と境を接し、桧木内川が町中央部を北から南に流れる。「みちのくの小京都」と呼ばれる閑静な城下町である。
明治22(1889)年、町村制の施行より角館町・雲沢村・白岩村・中川村が誕生していたが、昭和30年に合併して新・角館町となった。
角館の歴史はこの地で覇を競った豪族たちの盛衰とともにあった。南北朝後半には菅氏と名乗る豪族が所領としていたが、室町に入って戸沢氏の支配に代わり、小松山といわれた地に角館城を構えて一帯を領した。
戸沢光盛は天正18(1590)年、秀吉の奥州仕置で「出羽国仙北之内北浦郡」の大名として安堵された。その後を継いだ政盛は慶長7(1602)年、全国を制覇した徳川家康よって常陸へ転封させられた。これに代わって入部したのが佐竹義宣である。
慶長8(1603)年、義宣の弟・芦名義勝が1万5千石を与えられて治めるところとなったが、元和6(1620)年、徳川幕府の一国一城令によって城が破却され、城下を移転。新たに町割をすることになった。これが現在の町並みである。承応2(1653)年、幼かった当主・千鶴丸が急逝し、後継ぎがなくなったために角館芦名氏は51年で断絶した。その後は佐竹北家の預り地として明治維新を迎える。
息づく武家屋敷街
町の北側、内町には武家屋敷が立ち並び、南の外町は町人町である。武家屋敷街は昭和51(1976)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。閑静で美しい町並みは、春の枝垂れ桜(国指定天然記念物)・夏の青葉・秋の紅葉・冬の雪景色とともに多くの観光客を魅了し続けている。桧木内川堤の桜並木も春にはソメイヨシノが咲き誇る国指定名勝地である。
足を向けてみたいのは郊外の抱返り渓谷と古城山城跡だ。抱返り渓谷は白岩岳の山麓を抉って八幡平から発する流れる玉川が流れる。夏の深緑と秋の紅葉が見事な変化を見せてくれる野趣あふれる渓谷である。
町の北部にある古城山城跡は戸沢氏が築き、その後芦名氏が居城としていた角館城があった所。その山頂からは町が一望に見渡せる。
映画ロケを招致
元来、横手盆地北部の行政・商業の中心地として栄えてきただけに、現在も近隣の町村を商圏として取り込み、商業・サービス業の集積が進んでいる。暮らしのなかに伝統が息づいている角館ならではの風物に定期市がある。藩政時代から続いているもので観光客も立ち寄る。
主産業は「あきたこまち」が主力の米づくりだが、町の面積の7割が山林であることから林業も盛んだ。このほか市場の動向をにらんだ畜産、野菜、園芸、果樹などの複合化が進んでいる。地場で取れた野菜・花などを地元が積極的に先行して消費する地産地消も活発に行われていて、地元生産を支える基礎の一つとなって広がりを見せている。
歴史と自然がマッチした景観が観光の目玉であるが、映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)のロケがきっかけになって、ロケを呼び込むことによって地域の活性化に結びつけるフィルムコミッション(FC)設立の気運が盛り上がった。これを受けて平成14年、住民参加による「かくのだてフィルムコミッション」が結成されて招致活動に入っている。
武士の内職から始まり、明治になってから専業化した樺(桜皮)細工は特産で茶筒、筆箱、お盆などは民工芸品として観光客に人気がある。樺細工伝承館は文化、歴史資料、制作実演を体験できる広域観光の拠点。古い和風建築様式で落ち着いた佇まいを見せる。白岩焼は藩御用達だった窯で、今では美術品まで幅広く焼かれている。
伝統と近代文化を生かす
平福記念美術館は日本画家で町出身の平福穂庵・百穂父子、平賀源内が才能を見つけたという、わが国洋画の先駆となった秋田蘭画の祖・小田野直武など郷土作家の作品を展示。新潮社記念文学館は同社を創業した佐藤義亮を顕彰して平成12年に開館、日本近代文学の流れを紹介している。
「角館のお祭り」は毎年9月7日〜9日に開かれる。雅な飾山(おやま)囃子と手踊り、山車同士がぶつかり合う勇壮な「やまぶっつけ」からなる。静・動が対照的な祭りで平成3年、国指定重要無形民俗文化財に指定された。
今年9月、田沢湖町、西木村と合併し、仙北市として新たなスタートを切った。引き続き地域の中核都市としての役割を果たすことが期待される。
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県内陸部、仙北平野の北端に位置し、奥羽山脈に連なる小高い山に三方を囲まれており、東は和賀岳を望んで岩手県と境を接し、桧木内川が町中央部を北から南に流れる。「みちのくの小京都」と呼ばれる閑静な城下町である。
明治22(1889)年、町村制の施行より角館町・雲沢村・白岩村・中川村が誕生していたが、昭和30年に合併して新・角館町となった。
角館の歴史はこの地で覇を競った豪族たちの盛衰とともにあった。南北朝後半には菅氏と名乗る豪族が所領としていたが、室町に入って戸沢氏の支配に代わり、小松山といわれた地に角館城を構えて一帯を領した。
戸沢光盛は天正18(1590)年、秀吉の奥州仕置で「出羽国仙北之内北浦郡」の大名として安堵された。その後を継いだ政盛は慶長7(1602)年、全国を制覇した徳川家康よって常陸へ転封させられた。これに代わって入部したのが佐竹義宣である。
慶長8(1603)年、義宣の弟・芦名義勝が1万5千石を与えられて治めるところとなったが、元和6(1620)年、徳川幕府の一国一城令によって城が破却され、城下を移転。新たに町割をすることになった。これが現在の町並みである。承応2(1653)年、幼かった当主・千鶴丸が急逝し、後継ぎがなくなったために角館芦名氏は51年で断絶した。その後は佐竹北家の預り地として明治維新を迎える。
息づく武家屋敷街
町の北側、内町には武家屋敷が立ち並び、南の外町は町人町である。武家屋敷街は昭和51(1976)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。閑静で美しい町並みは、春の枝垂れ桜(国指定天然記念物)・夏の青葉・秋の紅葉・冬の雪景色とともに多くの観光客を魅了し続けている。桧木内川堤の桜並木も春にはソメイヨシノが咲き誇る国指定名勝地である。
足を向けてみたいのは郊外の抱返り渓谷と古城山城跡だ。抱返り渓谷は白岩岳の山麓を抉って八幡平から発する流れる玉川が流れる。夏の深緑と秋の紅葉が見事な変化を見せてくれる野趣あふれる渓谷である。
町の北部にある古城山城跡は戸沢氏が築き、その後芦名氏が居城としていた角館城があった所。その山頂からは町が一望に見渡せる。
映画ロケを招致
元来、横手盆地北部の行政・商業の中心地として栄えてきただけに、現在も近隣の町村を商圏として取り込み、商業・サービス業の集積が進んでいる。暮らしのなかに伝統が息づいている角館ならではの風物に定期市がある。藩政時代から続いているもので観光客も立ち寄る。
主産業は「あきたこまち」が主力の米づくりだが、町の面積の7割が山林であることから林業も盛んだ。このほか市場の動向をにらんだ畜産、野菜、園芸、果樹などの複合化が進んでいる。地場で取れた野菜・花などを地元が積極的に先行して消費する地産地消も活発に行われていて、地元生産を支える基礎の一つとなって広がりを見せている。
歴史と自然がマッチした景観が観光の目玉であるが、映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)のロケがきっかけになって、ロケを呼び込むことによって地域の活性化に結びつけるフィルムコミッション(FC)設立の気運が盛り上がった。これを受けて平成14年、住民参加による「かくのだてフィルムコミッション」が結成されて招致活動に入っている。
武士の内職から始まり、明治になってから専業化した樺(桜皮)細工は特産で茶筒、筆箱、お盆などは民工芸品として観光客に人気がある。樺細工伝承館は文化、歴史資料、制作実演を体験できる広域観光の拠点。古い和風建築様式で落ち着いた佇まいを見せる。白岩焼は藩御用達だった窯で、今では美術品まで幅広く焼かれている。
伝統と近代文化を生かす
平福記念美術館は日本画家で町出身の平福穂庵・百穂父子、平賀源内が才能を見つけたという、わが国洋画の先駆となった秋田蘭画の祖・小田野直武など郷土作家の作品を展示。新潮社記念文学館は同社を創業した佐藤義亮を顕彰して平成12年に開館、日本近代文学の流れを紹介している。
「角館のお祭り」は毎年9月7日〜9日に開かれる。雅な飾山(おやま)囃子と手踊り、山車同士がぶつかり合う勇壮な「やまぶっつけ」からなる。静・動が対照的な祭りで平成3年、国指定重要無形民俗文化財に指定された。
今年9月、田沢湖町、西木村と合併し、仙北市として新たなスタートを切った。引き続き地域の中核都市としての役割を果たすことが期待される。
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