2005年10月31日

岩手町

北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」

 岩手町は、縄文時代や奈良・平安時代の遺跡が数多く発掘されるなど、農耕を中心に古くから栄えてきたことがうかがえる。その中心に位置する沼宮内は、江戸時代には奥州街道の宿場として藩の代官所が置かれるなど、この地域の中心としての歴史を刻んできた。
 明治維新後も、国の出先機関が設置されるなど岩手郡の中心として重要な位置を占めてきた。同町の発展に大きな役割は果たした東北本線沼宮内駅が開業したのは明治24(1891)年で、県北の物資輸送の拠点として最盛期には70人の駅員が勤務し、木材、野菜、木炭などの輸送で大いににぎわったという。沼宮内町、御堂村、川口村、一方井村の1町3村が合併し、現在の岩手町が誕生したのは昭和30(1955)年のことである。
 平安時代に坂上田村麻呂が祈願所として建立した御堂観音。その深閑とした境内には、北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」がある。この弓弭の泉には、前九年の役(1051〜1062年)で進軍した源義家が弓弭を持って岩にさしたところ、清水が湧き出て炎天下に苦しむ兵馬を救ったという言い伝えが残されている。

彫刻とホッケーのまち

 また同町は「彫刻のあるまち」「ホッケーのまち」としても知られる。昭和48年から続いている国際石彫シンポジウムは国内一の歴史を誇り、平成5年には、野外彫刻美術館として石神の丘美術館が開館。一方、町は昭和45年の岩手国体でホッケー会場となったことからホッケー競技を町技として普及させ、沼宮内高校の数々の全国優勝とともに、全日本選手を多数輩出するなど輝かしい伝統を積み重ねている。
 待望の東北新幹線盛岡・八戸間が平成14年12月1日に開業。停車駅のいわて沼宮内駅を擁する岩手町では広域交流、観光情報発信の拠点となる駅ビル・岩手広域交流センター「プラザあい」を完成させるなど、新幹線時代にふさわしいまちづくりを推進し、久慈市、西根町、盛岡市の中間に位置する地の利を生かしたさらなる発展に期待を高めた。
 国道4号沿いには、新たな観光拠点として道の駅「石神の丘」がオープン。町を一望する高台にあって、新鮮な野菜や花きを販売する産直施設や地元の食材をたっぷりと使ったレストランなどが人気を呼んでいる。あわせて石神の丘美術館はギャラリーと工房を新設し、新たな彫刻美術館として生まれ変わり、県内外からの多くの見学客を集めている。


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道の駅「石神の丘」。遠くに東北新幹線いわて沼宮内駅が見える

2005年10月21日

秋田酒ものがたり(中)


新技術の開発成功で酒質向上
 
 明治になっても、秋田の酒は地方の地酒に過ぎなかった。酒づくりの技術が灘(兵庫県)など酒造先進地に及ばなかったことや、地主による兼業酒屋が多く、酒質の向上など企業努力に熱心ではなかったことが、秋田の酒の地位を低いところに留めておいた。
 しかし明治の後半から大正にかけて、専業の酒造業者が続々と誕生すると、「酒造王国」秋田の片鱗がやっと見え出した。灘など酒造先進地の高い技術を修得しようと、酒造関係者は積極的に県外に出た。湯沢の清酒「両関」蔵元の伊藤家に婿養子に入った忠吉はひときわ酒づくりに情熱を傾け、灘のほか東京の国税庁醸造試験場に学び、酒質の向上に努めた。この蔵元では秋田流寒仕込みである長期低温長期発酵法の開発に成功し、秋田の酒質の向上に大きな貢献を果たした。
 そうした関係者の努力が実り、「両関」は大正2(1913)年の第4回全国清酒品評会で優秀賞を獲得。これをきっかけとして秋田の蔵元は相次いで優秀賞、名誉賞に輝き、酒どころ秋田の名を全国に知らしめた。
 
秋田の酒づくりを牽引した銘酒「爛漫」
 
 明治38(1905)年の奥羽本線開通は、東北各県や北海道など県外への販路拡大をはかるうえでの大きな転機となった。優秀な秋田の酒を全国に広めようという県内の酒造業界
の熱い思いは、大正12年、同業界有志が集っての秋田銘醸株式会社(湯沢市)設立で具体化。同社が生み出した銘酒「爛漫」は、創業時に全国清酒品評会で優秀賞に輝き、昭和3(1928)年には名誉賞を手にした。この蔵元は「東北の灘」といわれる銘醸地湯沢の基礎を築くとともに、酒づくりに携わる人々の技術研修の場ともなった。
 大正7年、仙台税務監督局の花岡正庸技師が秋田県技師を兼務し、秋田県内の酒造技術の指導に心血を注いだことも、秋田の酒の質を高めることに大きく役立った。同氏は、県酒造組合連合会の伊藤恭之助会長らとともに、秋田銘醸株式会社の設立に奔走した人物でもある。秋田県の酒造業界の発展に貢献を果たした花岡氏は「秋田酒の父」として敬われている。
 当時、秋田県内の一流旅館など格式の高い場所では灘の酒が用いられ、一般家庭でも積極用には山形県鶴岡市の大山酒が振る舞われるなど、酒席の上座には県外酒が腰を据えていた。秋田の酒が県内の一流旅館などで用いられるようになったのも、花岡氏らの功績によるところが大きいといわれる。県産酒の愛飲運動は当時から行われていたのである。
(つづく)
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2005年10月14日

盛岡集団婦女暴行事件

若い女性を次々と襲う

朝鮮戦争勃発の社会的混乱のなか

 昭和25(1950)年6月25日早朝、北緯38度線をはさんで対峙していた朝鮮人民軍(北)と韓国軍(南)が数カ所で武力衝突し、朝鮮人民軍は敗走する韓国軍を追って南進を開始。3年にわたり朝鮮半島のほぼ全域を戦火に包んだ朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされたのである。
 朝鮮人民軍の圧倒的な優勢のうちに、開戦3日後の6月28日、韓国の首都ソウルが陥落。9月初めには国連、韓国の連合軍が大邱、釜山を含む半島南端の狭い一角に追い詰めらてしまった。太平洋戦争での敗戦からわずかに5年、隣国での戦火の拡大に日本国内は騒然となり、国民の不安を駆り立てた。
 そんな明日をも知れない社会情勢のもと、未成年多数を含む集団による連続婦女暴行事件が盛岡で発生し、市民を恐怖に陥れた。事件は全国に類を見ない凶悪なもので、被害件数は25年7月から10月までの間に警察に届け出があったものだけで23件にも達し、若い女性が夜一人では歩けない状態が続いた。
 犯行の現場となったのは、岩手公園、明治橋際の浮島公園、北上川や中津川の河川敷など市中心部から河南、仙北地区に集中し、夜間デート中の男女や夏まつり帰りの若い女性などが次から次へと襲われた。戦後の混乱に加えての朝鮮戦争勃発という混沌とした時代背景があったとはいえ、常軌を逸した若者たちが夜のまちを支配する異常事態だった。警察に届け出のあった事件の被害者は16歳の少女から既婚の20代の女性まであわせて26人。世間体を気にして告訴をためらった被害者も多かったと見られる。自らの快楽と欲望のために、女性に生涯消えることのない深い心の傷を負わせたこの事件は、決して許されるものではない。

デート中の女性らを集団でレイプ

 犯行グループ摘発は、同年10月3日夜、岩手公園を青年Aさんと散策中のK子さん(21)が二人組の男に脅迫され暴行されそうになった事件が発端となった。この時、Aさんの通報で駆けつけた警察官が、市内の男性M(19)、同K(18)を逮捕。二人は、仙北町の浮島公園での婦女暴行事件の加害者と人相、着衣が似ていることから、被害者の女性に確認してもらったところ、犯人であることが判明。これが端緒となり20歳前後の若者あわせて49人がかかわった数々の集団暴行事件が次々と明らかになり、容疑者が相次いで逮捕された。
 浮島公園の事件とは、市内仙北二丁目にある虚空蔵堂の夏まつりが行われた7月12日夜、まつり帰りに同公園を散歩中のM子さん(20)と連れの青年Bさんが徒党を組んだ男性12人のグループに襲われ、M子さんが半死半生になるほどの暴行を受けるとともに、Bさんも袋だたきにされたというもの。当時、浮島公園は明治橋の少し上流南側の北上川河川敷にあり、市民の憩いの場、デートスポットとしてにぎわっていた。現在、同公園跡地は盛岡の夏の風物詩として知られる伝統行事「舟っこ流し」の会場となっている。城下町の面影を残す盛岡の落ち着いたまちの雰囲気からは、全国を騒がした連続婦女暴行事件が実際にあったとは想像することができない。

盛岡の夜を支配した婦女暴行団

 この浮島公園事件を皮切りに、若者らによる婦女暴行事件が立て続けに発生し、その手口も次第に凶悪化させていった。まかり間違えば殺人事件に発展しかねないほどの凶暴性で、市民をりつ然とさせた。浮島公園事件から3日後の7月15日午後10時ごろ、K子さん(19)が市内大宮の神社での夏まつりから一人で帰宅途中、8人組の男に襲われ、近くの本宮第二変電所前で暴行を受けた。さらにそれから4日後の19日夜には、市内鉈屋町の市立病院付近で連れの青年と雑談していたY子さん(16)が拉致され、付近の北上川河原で若者10人から暴行された。
 そして22日午後10時ごろ、N子さん(22)は青年Cさんと市内清水町の中津川杉土手を散歩していたところ、突然二人組の男に襲われたが、この時は逆に二人組がCさんに殴打され逃亡し、事なきを得た。それから1時間後の午後11時ごろ、こんどは市内下太田の太田橋付近の雫石川河原を歩いていたA子さん(23)と連れの青年Dさんが男5人に襲われる事件が起きた。犯人グループはDさんに殴るけるの暴行を加えたうえ川に投げ入れ、そのあとA子さんに襲いかかった。
 その後も若い女性への暴行事件は続いた。8月12日午後10時ごろ、岩手公園本丸付近を男性と散歩していたS子さん(20)が暴行を受けたほか、21日夜には市内東仙北の北上川河川敷を青年Eさんと歩いていたR子さん(17)が男性8人のグループに襲われ、犯人たちはEさんをこん棒で殴って失神させ北上川にほうり込んむとともに、R子さんに暴行を加えた。また9月8日午後11時ごろには、市内仙北町の駒形神社のまつりから帰宅途中のA子さん(18)、H子さん(18)が7人組の男に襲われる事件が発生。その後も事件はいっこうに止まなかった。
 
犯人グループに法の裁き
 
 世間を騒がせた犯行グループの大部分は未成年者で、盛岡市南部の仙北町や本宮などに住んでいる若者が多く、中には岩手大学生4人も含まれていた。狂った獣のように女性に牙をむく若者たち、主犯格の男は一人で8件もの事件にかかわるなど悪質だった。
 全国的にも注目された前代未聞の集団暴行事件の判決は、26年1月31日、盛岡地裁で行われ、主犯格の男性に懲役8年のほか、15人に懲役6年から2年、未成年者13人には主犯格の19歳の男性に懲役5〜10年を最高に懲役2年〜4年、同5年〜6年の不定期刑が言い渡された。なお未成年の岩手大学生ら3人には執行猶予5年の温情判決が下された。戦後の混乱が続き治安が安定していなかった時代だったにせよ、若い女性が安心して外出できない夜の無法状態が4カ月も続いたこの事件のことを考えると、いまの日本はずいぶん安全になったものだと関心してしまう。


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2005年10月07日

大慈寺、惣門、新馬町界わい

城下町の風情が漂うまち

 数々の名刹が並び寺町として親しまれてきた大慈寺町、盛岡城下にあって物資交易の要所として栄えた惣門付近、馬検場や旧盛岡劇場があった新馬町(現松尾町)。城下町としての風情を残し、歴史の重みが息吹く町並からは、豊かな歴史と文化に彩られた潤いと落ち着きが感じられる。

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下町の風情を残す寺の下
 
物資交易の中心として活気、惣門付近
 
 藩政時代、城下町盛岡の南の玄関口として活気を呈した惣門界わい(現在の南大通二丁目、三丁目)。北上川船運の起点である新山河岸に近く、また奥州、釜石、宮古街道などが通る交通の要だったことから、この要所を警護するために「惣門」が建てられ、一日二回の時鐘とともに門が開閉されたという。南大通二丁目の木津屋本店の近くの道には「盛岡城整備惣門遺址」の石碑が残り、当時の様子を伝えている。
 また惣門付近一帯は、物資交易の中心地として、糸屋、木津屋など数多くの豪商が軒を連ね、盛岡城下の中で最もにぎわいを見せていた。江戸時代の町屋の面影を残す糸屋(中村家住宅)の建物は、貴重な歴史的建造物として国の重要文化財に指定されており、市内愛宕町の盛岡中央公民館の敷地内で大切に保存されている。
 南大通三丁目の円光寺は、盛岡市出身で戦前、海軍大将、首相などを務めた米内光政の墓があることで知られる。閑静な境内のなかには、市指定天然記念物に指定されている樹齢300年の夫婦桂が参拝者を静かに見守っている。
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盛岡城整備惣門遺址の石碑と惣門付近

名刹が並ぶ寺町・大慈寺界わい

 鉈屋町から大慈寺に通じる通りは「寺の下」と呼ばれ、平民宰相として活躍した原敬の墓所のある大慈寺や祇陀寺をはじめ、周辺には永泉寺、久昌寺、長松院、千手院、臨江庵など数々の名刹が並び、藩政時代から続く歴史ある寺町として市民に親しまれてきた。
 大慈寺は、南部藩主の姫君が帰依した由緒と格式ある寺だったが、明治17(1884)年の大火で類焼し全焼。その後、原敬の援助によって同38年、宇治の万福寺を模した楼門形式の山門や本堂、車裏などが新築された。
 大慈寺界わいはかつて北上川の川筋であったことから湧き水が豊富で、その清水を、木管を通して引き共同井戸の水源としたのが、大慈寺そばの青龍水と鉈屋町の大慈清水である。
 水道がまだ普及しない頃は、人々が朝夕に集まり格好の社交場となっていた。いまでもこの貴重な共同井戸は、用水組合により大切に管理されており、この清冽な水を求めて町内の人たちが足を運ぶとともに、わざわざ遠くから車や自転車で汲みに来る人も絶えない。この界わいのそば屋や豆腐屋はこの水を商売に利用しており、「そばも豆腐も盛岡一うまい」と地元の人たちが誇らしげに語る。
 良質の水の湧き出る所では、うまい酒が造られるといわれるが、この地も例外ではなく、県を代表する酒造メーカーのあさ開が明治4年の創業以来脈々とこの地において酒造りを続けているほか、明治5年創業の老舗岩手川も鉈屋町に醸造工場を持つ。
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大慈寺の青龍水
 
全国の馬産関係者でにぎわった馬検場 
 
 古くから名馬の産地として知られていた岩手県。特に藩政時代には、南部馬の産地として名声を博した。盛岡城下で行われる毎年秋の馬市には、藩内はもとより全国から多くの馬産関係者が集まりにぎわった。この馬市が開かれたのが当時の馬町(現在の清水町、肴町)であり、明治になってからも管制の馬検場を中心として昔ながらの馬市風景が繰り広げられたという。
 馬産地岩手の象徴である馬検場が、新馬町(現在の松尾町)に移転して、さらに規模を拡大したのは明治45年のこと。以来、全国から馬産関係者を集めての馬市のにぎわいは、戦後まで続いた。跡地にひっそりと残る馬検場の建物からは、時が止まったかのようにいまでもセリ市の威勢の良いかけ声が聞こえてきそうだ。
 旧盛岡劇場は、当時の地元有志の出資により松尾町に建設され、大正2年に開館。木造三階建てのこの劇場は、盛岡に過ぎたるものといわれるほど立派な建築物で、中央の歌舞伎、演劇などが上演され、盛岡の文化の殿堂として多くの市民に愛された。しかし老朽化に伴って取り壊され、その跡地には、近代的な盛岡劇場・河南公民館が建っている。
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馬産地岩手の歴史を物語る馬検場だった建物




 

中野、茶畑、神子田界わい


川と緑に囲まれた盛岡市東部の住宅地



戦国武将が争った古戦場


 
 盛岡市の東部に位置する中野、茶畑界わいは、清流簗川など豊かな水と小高い丘の緑に恵まれた閑静な住宅地、国道4号バイパスなど幹線道路が通る交通の要所として、時代とともに発展を続けてきた。北上川沿いの神子田も戦後、新興住宅地として都市化が進み、その一角にある市民の台所・神子田の朝市が人気を集めている。
 茶畑・中野界わいが歴史の表舞台に登場するのは戦国時代の末期のこと。岩手郡の諸豪族を従えて本拠地の三戸(青森県)から南進してきた南部氏は、この地で紫波郡の有力豪族・斯波氏と刃を交え、簗川を主戦場に十数年にわたる一進一退の戦いを繰り広げた。このとき南部氏の前線拠点となったのが中野館で、盛岡八幡宮の南に位置する松尾神社の丘がその館の跡だ。
 南部氏によるこの地の支配が確立し、盛岡城が築かれると戦国時代の名残である館は廃止され、かわって城下警護のため上小路や神子田組町などの武家、足軽町がつくられた。さらに神子田組町の東端には神子田桝形が配置され、遠野・大迫街道や宮古街道などから城下に出入りする人馬の取り締まりにあたった。
 藩政時代、中野という地名は、簗川と中津川にはさまれた北上川流域の広い水田地帯を示していた。その一角を占める茶畑は、盛岡城を築いた南部利直が宇治から茶の種を求めて、茶商人に茶の栽培をさせた由緒ある場所であり、一面の田んぼの中に茶園があったことから茶畑と呼ばれるようになったという。
 また、岩手山や姫神山を遠くに仰ぎ、北上川や簗川を隔てて南昌山を望む山紫水明の地としても人々の人気を集め、南部藩主の別邸や南部藩重臣の下屋敷(別荘)、糸屋や木津屋など豪商の田屋(別荘)が置かれていた。
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静かに流れる簗川と、奥に見えるのが岩山

岩手の近代教育と岩手リンゴ栽培の発祥地


 幕末になると、簗川下流に盛岡藩の洋学校「日新堂」が開校する。釜石鉱山を開いた大島高任や西洋医学者の八角高遠が、化学、物理、医学、製錬、砲術、英語、オランダ語などを教え、岩手における近代教育発祥の地となった。世界的物理学者として名声を博した田中舘愛橘博士もここで教えを受けた一人である。
 明治時代、中野は岩手リンゴ栽培発祥地として一躍有名になった。現在の中野小学校の敷地に住んでいた古沢林という旧南部藩士が、明治5(1872)年に横浜から西洋リンゴの苗を取り寄せ、苦心の末に栽培を成功させた。これをきっかけにリンゴ栽培が県内に広く普及していった。
 戦前は水田とリンゴ畑が広がるのどかな農村地帯だったが、戦後の急激な人口増に伴う住宅建設により開発が進み、さらに国道4号バイパス(昭和44年開通)工事に関連して、茶畑、東中野、神子田などで大規模な土地区画整理事業が実施され、市街地として脚光を浴びるようになった。
 現在、茶畑、中野は閑静な住宅地として人気を集め、区界高原から流れる清流簗川の流域は、自然に恵まれた新興住宅地として静かな佇まいを見せている。天明、天保の大飢饉の餓死者供養のために建立された十六羅漢、酒の神として崇められている松尾神社など貴重な史跡も多い。
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江戸時代の大飢饉飢餓者供養のための十六体の仏像が安置されている十六羅漢公園

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酒の神が祀られている松尾神社

市民の台所・神子田の朝市


 市民の台所として人気の神子田の朝市は、昭和43年に南大通三丁目の明治橋際に開設されたのが始まりで、その後53年に駐車場不足の解消を図るため現在地に移転した。
 その開設のきっかけは、惣門近くにあった農協市場が、津志田の盛岡中央卸売市場へと移転されることが決まったことによる。農協市場の移転により市中心部における生産者の直売施設がなくなることから、生産者が主体となって組合を結成し、生産者と消費者が直結した朝市が誕生した。
 神子田の朝市は現在、野菜、果実、切花、山菜、漬物など店舗数は112。全国的にも珍しい通年営業の朝市で、組合方式では国内最大級の規模を誇っており、土日を中心として多くの市民でにぎわっている。
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多くの市民でにぎわう神子田の朝市

内丸・中央通り界わい


歴史を受け継ぐ城下町盛岡の中心地



 南部藩重臣の屋敷町として栄え、明治維新後は官公庁街として面目を一新した盛岡市内丸界わい。昭和40年代以降、オフィス街として急速に発展を遂げた中央通り。岩手県の行政、金融ビジネスの中心地として大きな役割を担う。城下町の風情と風格が残る"杜と水の都"盛岡市のシンボルである盛岡城址は、南部盛岡藩20万石の城下町として栄えた往時をしのばせる貴重な遺産。花崗岩をふんだんに使った石垣は見事で、白河城、会津若松城とともに東北の三名城と称される。
 盛岡城は、南部藩中興の祖である26代信直の子である利直によって慶長2(1597)年着工し、毎日2000人の人夫を動員しての大工事の末、寛永10(1633)年完成した。その後も落雷などによって櫓や火薬庫が焼失、その度に大修理が行われたほか、櫓の増設や石垣の補修なども繰り返された。
 明治維新では、幕府軍に組したため、城内の建物はすべて取り壊され、いまは石垣を残すのみだが、その石垣には17代275年に及ぶ南部藩主の居城としての歴史が深く刻まれている。

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旧盛岡城の石垣。現在の岩手公園


南部藩の重臣たちの屋敷町
 
 盛岡城の築城の場所として選ばれたのは、北上川、中津川に囲まれた中州の丘陵地帯。三方を川の囲まれた自然の要害である。しかし残る一方の西側は陸続きで、その守りを固めるために、中津川下流から水を引き、北上川本流と結ぶ外堀を築いた。この外濠の内側に作られた御屋敷町が内丸である。
 まさに盛岡城下の中心地域で、土塁と濠で固められたこの内丸に入るためには、中の橋御門、大手先御門、日影御門などの門を必ず通らなければならず、門の番所では門番が厳しく人の出入りを監視した。もちろん町人や旅人の通行はいっさい許されていなかった。
 城下盛岡の中心であるこの内丸には、北氏、八戸氏、中野氏、桜庭氏など南部氏一家一門のほか、600石以上の高知衆の屋敷が連ね、また広小路御殿、清水御殿など藩主の別邸もあった。南部家の家老である北氏の屋敷跡(現在の盛岡地方裁判所)に咲く石割桜は、樹齢350年前後と推定され、当時の面影を残している。
 
県の行政の中心として面目一新
 
 明治維新の激動は、南部藩にも大波となって押し寄せてくる。幕府方に組みした南部藩では、明治6(1876)年、盛岡城内の建物、城門などすべての施設は解体、一般に払い下げられ、石垣だけが残った。その後明治39(1906)年、旧城内は県によって整備され、県営の岩手公園として第二の人生を歩みことになり、昭和12(1937)年には国の史跡に指定された。
 内丸界わいについては、濠と御門が取り壊されて庶民の通行が自由になり、南部藩の重臣たちの屋敷もそれぞれ払い下げ、取り壊され、風格漂う武家屋敷町は様相を一変。それに代わって官庁や学校が建ち、行政、教育の中心として急速に変貌を遂げていった。
 現在の県庁付近にあった旧藩主の別邸(広小路御殿)が、県庁と定められたのは明治4(1871)年のことである。それに呼応して、いまの県公会堂の向いには仁王村・上田村の役場(のちに盛岡市庁舎として活用)、現在の盛岡地方裁判所には仙台裁判所の盛岡支所、盛岡警察署などの行政機関が次々に建てられ、いまに続く行政の中心としての片鱗を見せている。旧藩士の屋敷を利用して業務を開始した各機関も、明治中期になると相次いで庁舎を新築し、急速に体裁を整えていった。

南部藩中興の祖を祀る桜山神社と時鐘
 
 南部氏の遠祖南部光行と盛岡移城の大業を成し遂げた南部信直以下、利直、利敬 を祀る由緒ある桜山神社。旧桜山から現在の盛岡城跡の一角に移されたのは明治32(1899)年のことである。
 かつて、内濠の名残である亀が池と鶴が池に囲まれた広い境内には、神楽堂や二軒の茶店(餅屋)があるだけで、神社前から一の鳥居まで深閑とした雰囲気に包まれていた。ただ桜の木が多く、花見の季節になると多くの市民でにぎわったらしい。また亀が池は、いまよりももっと広く、冬になるとすスケート大会が開かれるなど市民の格好の遊び場だったようだ。
 神社付近が、現在のようににぎやかになったは、戦後、東大通商店街として開発されたからである。神社前から一の鳥居までの間には多くの商店、飲食店が建ち並び、独特の雰囲気を醸し出している。
 この界わいで、桜山神社とともに南部藩の歴史を物語っているのが、鐘撞堂である。藩政時代、盛岡城下の時鐘は日影門外小路(現在の盛岡中央郵便局付近)と旧十三日町の2カ所にあり、城下の人々に時刻を知らせていた。桜山の時鐘は、もともと現在の場所にあったのではなく、明治維新後、日影門外小路から移されたもの。延宝7(1679)年に鋳造されたもので、昭和30年頃までの約280年間、時を告げる鐘として使われた。盛岡市指定有形文化財に指定されている。
 
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桜山神社界わいの飲食店街


県下の産業発展の拠点となった勧業場
 
 中の橋から県立図書館、その南側の芝生広場、そして自治会館、東北銀行、盛岡東警察署一帯の広大の敷地には、明治維新後、維新で失業した旧藩士の生活自立のための授産施設として勧業地が設置された。
 県下の産業発展の拠点となった場所で、養蚕室、機業所、工業所、製糸所、陶器所のほか、物品陳列所や牛馬養舎、男女の寄宿舎など37の建物が並んでいた。その後明治中期には、いまの市庁舎のあたりには協同商社、向いの合同庁舎付近には種芸場もあった。
 また、明治になると内丸一帯に学校が相次いで創立される。現在の県議会議事堂のあたりには医学校、その向いには盛岡師範学校、そしていまの岩手医大、岩手銀行事務センターのあるところには盛岡第一高等学校の前身である尋常中学校という具合である。
 北日本銀行本店の西隣、「聖跡記念塔」のある場所は、明治6(1873)年まで藩校の作人館があった場所で、そのあとに仁王小学校が開校。さらに仁王小学校の移転後には、市立盛岡商業学校の校舎として使われた。岩手県の教育史上、重要な役割を果たしてきた場所である。
 
官公庁団地として計画的に整備を進める  

 明治以降、官公庁施設の集積が進み、県の行政の中心として歩んできた内丸地区。盛岡市は昭和32年に都市計画法に基づく官公庁団地に指定。内丸70ヘクタールを建物地域、街路、公園緑地に分けて計画的に整備を図ることになった。
 官公庁団地指定前にすでに盛岡地方検察庁、盛岡警察署が新築されており、昭和30年の盛岡市庁舎、昭和40年の岩手県庁舎の改築後も、国合同庁舎、県警察本部庁舎、消防本部庁舎、盛岡地方裁判所の新築や改築が相次ぎ、現在の内丸官庁街の景観が完成した。
 また、内丸官公庁団地との関連で、中央通りから大通二丁目、三戸町、長田町、梨木町一帯の旧市街を整備する仁王地区土地区画整理事業は、昭和34年にスタートし、昭和46年に完了した。また幹線道路の新設や拡幅、舗装などが進み、仁王地区は銀行保険会社のビルが建ち並ぶオフィス街として面目を一新し、今日を迎えている。

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盛岡市役所から望む県庁前通り

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岩手県庁

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岩手県内一のビジネス街・中央通り




 


 

ふるさと探訪 秋田市


遷都400年の歴史と文化が息吹くまち

 秋田県の県庁所在地・秋田市は、佐竹秋田藩の城下町として発展を遂げ、いまでも城下町としての落ち着いた風情と豊かな文化の香りが色濃く残る。その一方で近代的なまちづくりも大きく進み、県庁所在地としての都市機能の充実が図られてきた。
 関ヶ原の合戦(1600年)後、秋田湊(現在の土崎)を拠点に秋田郡を治めていた戦国大名の秋田氏は常陸(茨城県)の宍戸に国替えとなり、代わって常陸から転封となった佐竹義宣が秋田入り。慶長8(1603年)年、久保田神明山(現在の千秋公園)に新城を築くとともに、佐竹秋田藩20万石の城下町にふさわしい町づくりに着手。その後、約270年にわたり秋田は藩の政治、経済、文化の中心を担いながら大きく発展し、明治維新後は県庁所在地として近代的なまちづくりが進められた。

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千秋公園(旧久保田城)に復元された御隅櫓

軍隊の進出をきっかけに新しいまちづくり

 明治22(1889)年、秋田県内では唯一、秋田町が市制を施行し、秋田市が誕生。発足当時の秋田市の人口は29,279人。
 日清戦争が終わって間もない同29年、県、秋田市などによる誘致運動が功を奏して、仙台市に置かれていた陸軍歩兵第17連隊と第16旅団司令部の秋田市移転が決定。上中城町(現在の千秋久保田町)には司令部と衛戌病院、長野町、土手谷地町、中谷地町(現在の中通二、四、六丁目の北地区)には連隊の兵舎、手形東新町、手形西新町、手形本新町、手形休下町(現在の手形住吉町、手形休下町一帯)には練兵場が置かれることとなった。
 市では土地の買収、用地の整備、建物移転費などを負担し、軍隊の受け入れに万全を期した。秋田市となって初めての新しいまちづくりである。第一陣として第17連隊第一大隊が秋田市に到着したのは明治31年のことだ。
 上野・青森間の東北本線開通から遅れること14年、明治38年奥羽本線が開通し、歩兵第17連隊に近い手形郷長沼に秋田駅が開業した。鉄道の開通によって秋田の表玄関は土崎港から秋田駅へと移ったが、その土崎には41年、国鉄土崎工場が設置されるとともに、43年には日本石油秋田製油所が進出するなど、工業を主体として活気を取り戻していった。
 初代の秋田市役所は、土手長町中丁の南秋田郡役所を活用したものだが、明治38年に放火による火災で焼失。それに代わる新庁舎は、千秋公園西側(現在の千秋矢留町)にあった秋田監獄跡地に建設され、同42年に完成した。その後、増改築などを繰り返し、現在の市庁舎が山王一丁目に完成する昭和39年まで市の中枢としての機能を果たした。

雄物川改修関連で茨島、新屋を埋め立て

 県南部の穀倉地帯で生産される米を中心とした農産物を土崎湊に運ぶ重要なルートとして藩政時代から船運で栄えた雄物川だが、ひとたび大雨になると洪水を繰り返す暴れ川へと、ふだんの穏やかな表情を一変させた。特に河口に近い仁井田、四ツ小屋、牛島など秋田市南部の被害は甚大だった。
 この雄物川の改修は、たびたび洪水に悩まされてきた流域住民の悲願であり、明治28年頃から計画されたが具体化されるまでには至らなかったが、大正6(1917)年、国と県の直営工事による改修がスタート。雄和町付近から蛇行しながら土崎港に至る流れを、新屋砂浜の開削によって放水路を建設し、そのまま日本海に注ぐ流れに変えようという一大工事だった。
 この改修工事は、22年の歳月と約1200万円の巨費を投じて昭和14年に完成。これによって流域の住民は大雨や台風の際にも安心して寝れるようになった。
 工事によって発生した大量の土砂は茨島や新屋の低地埋め立てに使われ、整備された土地には工場の誘致が進められ一大工業地帯へと発展を遂げていった。茨島地区には、昭和10年代、東北肥料秋田工場、東北機械製作所茨島工場、三徳秋田工場、戦後になると、21年の秋田林産、25年の三菱金属秋田製錬所など進出が相次いだ。一方の新屋地区には、同13年に東北パルプ秋田工場が進出を果たしている。

日本一の産油量・活況を呈した八橋油田
 
 古くから秋田市八橋では、地元の住民が自然に湧き出た石油を屋外灯火などに利用し、明治2年には千蒲善五郎による石油採取が行われている。
 同6年から7年には同市濁川と南秋田郡金足村黒川(のちに秋田市に編入)、同市外旭川などでも手掘りによる石油採取が始まった。秋田に進出した日本石油株式会社が、県内最初の油田として同41年には旭川油田、続く大正2年には黒川油田と開発を成功させている。特に黒川油田は年生産量15万6000キロリットルを達成し、日本有数の大油田として注目された。その最盛期は昭和の初めまで続き、県内の油田開発ブームの火付け役となった。
 そして昭和10年代には八橋油田が全盛時代を迎える。日本鉱業、日本石油が相次いで大油田の開発に成功し、全国産油の70パーセント以上を占めるなど国内トップの産油地帯へと発展を遂げた。土崎と船川には製油所は置かれ、フル稼働で製油にあたった。
 八橋油田を中心として石油王国・秋田の名が全国に広く知られるようになった。
 しかしその一方で、戦時中は日本石油秋田製油所のある土崎が空襲に見舞われ、大きな被害を被った。終戦間近の昭和20年8月14日夜、B29から投下された爆弾は同製油所だけではなく、周辺の上酒田町、新城町、七軒町などにも落ちた。四時間ほど続いた爆撃で、同製油所が壊滅的な被害を受けたほか、一般住宅など104の建物が全焼し、民間人の死者は86人に達した。

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土崎地区の鉄道の玄関口・JR土崎駅

大秋田市の誕生と山王官庁街地区整備

 昭和28年施行の町村合併促進法に基づき、翌29年には太平、外旭川、飯島、下新城、上新城、浜田、豊岩、仁井田、四ツ小屋、上北手、下北手、下浜の12カ村、30年には金足村を合併し、大秋田市が誕生した。市の面積はそれまでの3.5倍近くに広がり、人口も約1.4倍の19万人となった。
 秋田市は、29年に策定した市総合都市計画を指針として、市内に分散している官公庁を一地域に集中させる新しいまちづくりを計画。対象となったのが旧市街と八橋運動公園の間の広大な田園地帯で、面積は約14万3,200平方メートル。国、県、市の施設用地や、道路などの交通用地、公園などの緑地用地に線引きされ、大かがりなまちづくりが進められることになった。
 こうして整備された山王地区に、34年に県庁舎、39年に市庁舎が完成。その後も裁判所や検察庁、国の施設などが相次いで完成したほか、NHK秋田放送局、民間のビル、ホテルなども進出し、秋田市を代表する官庁、ビジネス街となった。
 県産業会館前から山王官庁街に通じる山王大通りは、県が43年から整備をはじめ、46年に山王十字路までの区間が完成した。

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官庁街・ビジネス街の山王大通り

新産業都市指定で秋田港整備が進む

 秋田市を中心とする秋田港地区が新産業都市の指定を受けたのは昭和40年のこと。これを受けて44年には国と県による秋田港地区大規模工業開発がスタート。秋田港から船川港までの26キロにわたる湾岸海面を埋め立て、港湾施設の建設と基幹工業用地を造成しようという計画だった。
 その拠点である秋田港では、41年に本港中島岸壁に15,000トン岸壁、45年には北新港が完成した。その後も新たな岸壁や防波堤の整備などが進んだ。また東北電力秋田火力発電所の進出や、秋木工業、東北製紙、プライウッド、東洋合板など大型工場の立地も相次ぎ、一大工場地帯となった。

公園都市を目指し花と緑のまちづくり

 秋田市は昭和48年、全国にさきがけて「公園都市秋田市をつくる条例」を制定。土地の乱開発を防ぎ、自然の守り、美しい緑の公園都市づくりを進めるのが目的で、市内の名木や古木12,000本余を保存樹木として保護するとともに、緑と花を添える100万本運動などを展開。
 こうしたなか、48年には八木山動物園、61年には一つ盛り公園が完成。市制施行90周年の54年には、花100万本運動のシンボルとして市役所前に花時計がおる目見えした。市制施行90周年の記念事業では、市文化会館が建設され55年に開館している。
 赤れんが館(旧秋田銀行本店)は修復され、60年に赤れんが郷土館としてオープン。旧明徳小学校跡地に市立中央図書館が完成したのは58年のことである。さらに60年には、御所野における職・住近接の新しいまちづくりがスタートした。
 市として着実な発展を遂げるなか、60年、秋田市の人口は30万人を突破し、仙台市に次ぐ人口規模を誇る東北第二の県庁所在地となった。
 平成元年には、市制施行100周年を迎え、盛大に記念式典が行われるとともに、記念事業として秋田総合生活文化会館(アトリオン)・市立美術館が開館したほか、千秋公園における御隅櫓の復元が図られ、新たな観光のシンボルとなった。
 太平山周辺の豊かな自然を観光開発に生かそうとスタートした太平山リゾートパーク事業では、3年にクワドーム「ザ・ブーン」がオープン。また、かつて海の玄関口としてにぎわった秋田港を中心とした土崎地区の再生を目指すポートルネサンス21事業では、秋港のランドマークタワーとして6年にポートタワー・セリオンが誕生した。

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ポートタワー・セリオンは秋田港
のランドマーク


中核市移行を実現

 秋田新幹線秋田駅が開業した平成9年には、中核市への移行を実現した。
 保健、福祉、環境など市民生活に密着した分野の事務の権限が県から市へ移譲され、きめ細かな対応による市民サービスの向上が図られるようになった。また都市計画や土地区画整理事業などのまちづくりに関する権限などの事務が県から市へ移譲されたことにより、これまで以上に地域特性を活かした 個性豊かなまちづくりを推進できるようになるなど、中核市の持つメリットは数多い。交流人口の拡大や企業立地の促進など地域経済の活性化が期待される。
 現在、生活環境の整備や交通網の充実、福祉の向上、教育・文化の振興などさまざまな施策が展開され、市民の期待に応えている。秋田駅東口では新しいまちづくりが進められ、平成17年には東口駅前に拠点施設としてアルウ゛がオープン。市西部と駅東口を結ぶ秋田中央道路の建設も進んでいる。平成17年1月11日には、河辺町、雄和町を編入し、新・秋田市となった。
(秋田ふるさと物語に掲載した原稿を一部修正)
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秋田駅東口と拠点センター・アルヴェ