2005年09月25日

一等地"地価力"ランキング

商業地、住宅地とも下落傾向が続く

 岩手、秋田、青森の各県は20日、今年7月1日現在の地価調査(基準地価)結果を発表。それによると、地域経済の低迷ぶりを反映し、各県そろって住宅地、商業地とも下落傾向が依然として続いていることが判明した。各都市の商業地、住宅地の価格上位地点、いわゆる一等地の地価を表したのが下記の表である。マンション建設が続く盛岡市が商業地、住宅地とも北東北3県のなかで2位にかなりの差をつけてトップとなった。上位10位に入ったのは、商業地で岩手5都市、青森3都市、秋田2都市、住宅地で岩手6都市、青森3都市、秋田1都市と岩手の突出ぶりが目立った。単純には比較できないが、岩手の各都市が秋田、青森の人口同規模の都市に比べて"地価力"で勝っているようだ。

各都市の価格上位基準地

■商業地■

価格(円)は1平方メートルあたり。変動率は前年比、▼はマイナス。ーは選定替えにより前年と比較できない地点

1. 岩手県盛岡市盛岡駅前通8-17 
440,000 ▼ 9.5

2. 青森県青森市新町1-13-4 
340,000 ▼14.1

3. 青森県八戸市十三日町25-1
250,000 ▼16.7

4. 秋田県秋田市中通1-4-10 
250,000 ▼19.4

5. 青森県弘前市駅前町11-5 
164,000 ▼13.2

6. 岩手県宮古市本町1-41
135,000 ▼10.6

7. 岩手県水沢市中町86 
128,000 ▼11.7

8. 秋田県大仙市大曲通町8-26 
110,000 ▼15.4

9. 岩手県花巻市大通り1-14-35 
105,000 ▼ 4.5

10.岩手県北上市本通り1-8-33
103,000 ▼ 8.8

11.岩手県釜石市上中島町1-1-33 
94,000 ▼ 8.7

12.岩手県一関市山目三反田248-1 
87,500 ▼ 9.3

13.秋田県横手市前郷一番町6-11
84,000 ▼15.2

14.岩手県二戸市石切所栃ノ木16-5 
83,100 ▼ 9.7

15.岩手県大船渡市盛町内ノ目1-13
82,300 ▼10.3

16.岩手県久慈市川崎町10-17 
81,100 ▼ 8.7

17.秋田県湯沢市表町1-2-8  
79,000 ▼16.8

18.青森市むつ市小川町2-3-36
78,600 ▼14.1

19.秋田県鹿角市花輪字下中島141
73,000 ▼ 3.9

20.秋田県由利本荘市裏尾崎町52-9 
72,500 ▼10.5

21.青森県五所川原市本町44-2
72,300 ▼ 6.5

22.青森県三沢市中央町1-8-4
69,000 ▼12.7

23.秋田県北秋田市材木町9-30 
68,000 ▼15.0

24.秋田県能代市通町7-24 
66,000 ▼ 9.6

25.秋田県大館市御成町2-9-3 
66,000 ▼12.0

26.青森県十和田市稲生町19-4 
57,300 ▼10.0

27.岩手県遠野市上組町2-21 
55,500 ▼ 5.9

28.岩手県陸前高田市高田町大町11-2 
54,400 ▼ 5.4

29.岩手県江刺市豊田町2-1-5
53,100 ▼ 6.0

30.青森県黒石市横町5-1 
46,000 ▼ 10.2

31.秋田県潟上市昭和大久保字堤ノ上91-69
33,000 ▼ 8.3

32.秋田県男鹿市船川港船川字外ケ沢126-3外
29,800 ー

33.青森県つがる市木造桜川2-37
27,300 ▼ 4.9


■住宅地■

1. 岩手県盛岡市住吉町8-34 
128,000 ▼ 7.9

2. 秋田県秋田市保戸野中町2-10 
105,000 ▼10.3

3. 青森県青森市橋本3-5-4
104,000 ▼ 6.3

4. 青森県八戸市類家1-215-9
84,500 ▼ 5.6

5. 青森県弘前市塩分町21-1外 
83,200 ▼ 7.6

6. 岩手県釜石市大只越町2-2-6
68,000 ▼ 8.1

7. 岩手県一関市沼田28-3        
66,000 ー

8. 岩手県宮古市南町10-26 
63,000 ▼ 4.3

9. 岩手県北上市若宮町2-7-10 
61,800 ▼ 3.6

10.岩手県水沢市東上野町9-15 
58,700 ▼ 3.6

11.岩手県花巻市西大通り1-15-30
53,500 ▼ 3.3

12.秋田県由利本荘市桜小路40-1 
52,500 ▼ 4.5

13.秋田県大館市中道1-5-22
49,000 ▼ 5.8

14.岩手県大船渡市大船渡町台15-19 
46,100 ▼ 2.7

15.秋田県大仙市田町8-16
46,000 ▼ 5.2

16.岩手県陸前高田市高田町森ノ前133-1
43,500 ▼ 5.4

17.秋田県横手市羽黒町9-14 
43,500 ▼ 5.4

18.秋田県能代市花園町14-9 
42,500 ▼ 5.6

19.青森県五所川原市岩木町1-8 
40,100 ▼ 4.1

20.岩手県久慈市門前第5地割1-3 
39,800 ▼ 2.0

21.青森県十和田市西四番町12-5
39,500 ▼ 4.1

22.岩手県二戸市福岡長嶺51-7 
38,000 ▼ 2.6

23.秋田県湯沢市内町6-34
37,500 ▼ 5.1

24.秋田県北秋田市宮前町4-24 
32,000 ▼ 4.5

25.岩手県江刺市銭町1-17
31,800 ▼ 3.0

26.岩手県遠野市六日町5-6 
30,800 ▼ 2.2

27.秋田県潟上市天王字長沼132-62
30,000 ▼ 4.2

28.青森県つがる市木造千代町102-3 
28,700 ▼ 4.0

29.青森県黒石市甲大工町1-1
28,400 ▼ 5.3

30.青森県むつ市小川町1-16-5
28,300 ▼ 3.7

31.青森県三沢市栄町3-140-506
26,700 ▼ 3.6

32.秋田県鹿角市花輪字久保田37-10 
21,300 ▼ 4.9

33.秋田県男鹿市船川港金川字金川台1-121 
15,500 ▼ 3.7

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2005年09月21日

秋田県の仙北市、岩手県の新・一関市が誕生

着々と進む「平成の大合併」

 平成の大合併が着々と進む中、9月20日、秋田、岩手の両県で合併による新市が誕生し、新たな歴史をスタートさせた。
 秋田県の仙北(せんぼく)市は、田沢湖町、角館町、西木村が新設(対等)合併して生まれた新市で、人口は約32900人。面積は約1913平方キロメートル。透明度日本一を誇る田沢湖や温泉、角館の武家屋敷など有数の観光地を擁し、3町村を合わせると年間600万人を超える観光客が訪れている。旧町村役場庁舎を活用した分庁舎方式により、本庁舎の田沢湖庁舎に総務部、角館庁舎に市民福祉部、西木庁舎に産業観光部、建設部をそれぞれ配置し、地域のバランスに配慮した。
 合併をめぐっては、前角館町長が単独立町を宣言してことから、3町村による合併協議は休止を余儀なくされていたが、前町長の辞職に伴う角館町長選で合併推進派の町長が当選したことから、3町村の合併協議会を再開し、合併にこぎつけた。「平成の大合併」では、今年6月20日に誕生した新・大館市(大館市、田代町、比内町)に次いで、県内10件目の新自治体誕生となった。
 岩手県の新・一関(いちのせき)市は、一関市、花泉町、大東町、千厩町、東山町、室根村、川崎村が新設(対等)合併して誕生した市で、人口は約130400人。人口規模では盛岡市に次ぐ県内第二位で、岩手県南では初の10万都市となった。また面積は約1133平方キロメートルとなり、県内一の広さを誇る。新庁舎は一関市に置かれた。
 この両磐地区の合併協議は昨年12月、新市名を「平泉市」と決定したが、その選定をめぐる混乱から最終段階で破談となり、県民を驚かせた。混乱というのは、平泉の名前を残すことにこだわった平泉町の委員が、花泉町の委員に「平泉市に決まらなかったら、合併協議会の会場から一緒に退席してほしい」と働きかけていたことが明るみになり、平泉町への不信が高まったことによるものだ。その後、平泉町と藤沢町を除く7市町村で合併協議を再スタートさせたという経緯がある。
 岩手県では、9月1日、西根町、安代町、松尾村が新設(対等)合併して八幡平(はちまんたい)市が誕生したばかりで、新・一関市の誕生は「平成の大合併」では県内3例目となった。

北東北3県「平成の大合併」の進行状況

これまでに合併発足した新自治体 ( )内は発足日、合併した市町村

■岩手県
新・宮古市(平成17年6月6日、宮古市、田老町、新里村)
八幡平市(平成17年9月1日、西根町、安代町、松尾村)
新・一関市(平成17年9月20日、一関市、花泉町、大東町、千厩町、東山町、室根村、川崎村)

■秋田県
美郷町(みさとちょう)(平成16年11月1日、六郷町、千畑町、仙南村)
新・秋田市(平成17年1月11日、秋田市、河辺町、雄和町)
由利本荘市(平成17年3月22日、本荘市、矢島町、岩城町、由利町、西目町、鳥海町、東由利町、大内町)
潟上市(かたがみし)(平成17年3月22日、昭和町、飯田川町、天王町)
大仙市(平成17年3月22日、大曲市、神岡町、西仙北町、中仙町、協和町、南外村、仙北町、太田町)
北秋田市(平成17年3月22日、鷹巣町、森吉町、阿仁町、合川町)
新・湯沢市(平成17年3月22日、湯沢市、稲川町、雄勝町、皆瀬村)
新・男鹿市(平成17年3月22日、男鹿市、若美町)
新・大館市(平成17年6月20日、大館町、田代町、比内町)
仙北市(平成17年9月20日、田沢湖町、角館町、西木村)

■青森県
新・五戸町(平成16年7月1日、五戸町、倉石村)
新・十和田市(平成17年1月1日、十和田市、十和田湖町)
つがる市(平成17年2月11日、木造町、森田村、柏村、稲垣村、車力村)
新・むつ市(平成17年3月14日、むつ市、大畑町、川内町、脇野沢村)
新・五所川原市(平成17年3月28日、五所川原市、金木町、市浦村)
中泊町(平成17年3月28日、中里町、小泊村)
新・藤崎町(平成17年3月28日、藤崎町、常盤村)
外ケ浜町(平成17年3月28日、蟹田町、平舘村、三厩村)
新・八戸市(平成17年3月31日、八戸市、南郷村)
新・深浦町(平成17年3月31日、深浦町、岩崎村)
新・七戸町(平成17年3月31日、七戸町、天間林村)
新・東北町(平成17年3月31日、東北町、上北町)
新・青森市(平成17年4月1日、青森市、浪岡町)

今後の合併発足予定 ( )内は発足予定日、合併予定の市町村

■岩手県
新・遠野市(平成17年10月1日、遠野市、宮守村)
西和賀町(にしわがちょう)(平成17年11月1日、湯田町、沢内村)
新・二戸市(平成18年1月1日、二戸市、浄法寺町)
新・花巻市(平成18年1月1日、花巻市、石鳥谷町、東和町、大迫町)
洋野町(ひろのちょう)(平成18年1月1日、種市町、大野村)
新・盛岡市(平成18年1月10日、盛岡市、玉山村)
奥州市(おうしゅうし)(平成18年2月20日、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村)
新・久慈市(平成18年3月6日、久慈市、山形村)

■秋田県
横手市(平成17年10月1日、横手市、平鹿町、雄物川町、大森町、十文字町、増田町、大雄村、山内村)
にかほ市(平成17年10月1日、仁賀保町、金浦町、象潟町)
新・能代市(平成18年3月21日、能代市、二ツ井町)
三種町(みたねちょう)(平成18年3月20日、琴丘町、山本町、八竜町)
八峰町(はっぽうちょう)(平成18年3月27日、八森町、峰浜村)

■青森県
平川市(平成18年1月1日、平賀町、尾上町、碇ヶ関村)
新・南部町(平成18年1月1日、南部町、名川町、福地村)
新・弘前市(平成18年2月27日、弘前市、岩木町、相馬村)
おいらせ町(平成18年3月1日、百石町、下田町)
新・大間町(平成18年10月1日、大間町、風間浦村、佐井村)

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2005年09月13日

ふるさと探訪 秋田県能代市


港を中心に産業、文化の花開く

 藩政時代、能代の港町は秋田杉や鉱産物などの積み出し港としてにぎわい、明治以降は木材産業が市の発展を牽引した。戦後、二度の大火を教訓に火災に強いまちづくりが進んだ。全国優勝の名門・能代工業高等学校を擁するバスケのまちとしても全国に知られる。

戦国大名・安東氏の拠点となった桧山城

  能代市は、能代港とともに発展を遂げたまちである。能代港の名は、古くから文献に登場するなど、日本海沿岸で重要な位置を占める港であったことがうかがえる。
 南北朝時代、津軽に本拠を持つ安東氏が山本、南秋田、男鹿方面に進出し、浅利氏などほかの有力豪族と対立抗争を繰り返したが、次第に戦国大名としての地位を確立。その後、明応4(1495)年、桧山(能代市)に城を築き本拠とした桧山安東氏、秋田郡を支配し土崎湊(秋田市)の城を拠点とした湊安東氏に分かれ争っていたが、愛季の時代になって安東氏(後の秋田氏)に統一された
 弘治2(1556)年、愛季は、米代川の河口に北国船による物資の交易拠点を築こうと、能代湊の町づくりに着手。家臣の清水治郎兵衛の統治のもと、着々とまちづくりは行われ、拠点性を高めていった。特に米代川上流から切り出される秋田杉や阿仁などの鉱山から産出される金、鉛などの鉱産物、米、大豆などの農産物の、京都など関西方面への積み出し港として活況を呈するようになる。 
 関ヶ原の合戦(1600年)の後、徳川幕府によって秋田氏は常陸(茨城県)の宍戸に国替えとなり、それに代わって常陸の佐竹氏が秋田六郡20万石を領有することとなった。

大洪水と大地震を経て能代へと改名

 新しい領主となった佐竹氏は、新田開発や鉱山開発などに力を注いだことから、秋田杉、米、鉱産物の一大集散地であり積み出し港、日本海交易の重要な港として能代はますますにぎわいを増し、それに伴って町も規模を拡大しながら発展していった。
 「東遊雑記」には、天明8(1788)年の能代の様子について「1400軒の大概のよい町で、北国、九州、大坂の廻船も多数入津し、商店多く豪家があり」と記載されている。
 古くから能代は「野代」という地名で表記されていたが、元禄5(1692)年の米代川大洪水、同7年の死者300人、家屋倒壊1400の大地震、宝永元(1704)年の死者72人の地震と立て続けに災害に見舞われたことから、「このままでは街が代わって野になりかねぬ」という危機感から、「能く代る」と「能代」へと期待を込めて改名した。

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世界自然遺産の白神山地を望むことができる能代港のはまなす展望台


飛砂から守る広大な砂防林「風の松原」

 能代地方は、海岸からの飛砂に悩まされてきた。現在の能代市は、幅1キロ、延長14キロの広大な黒松林「風の松原」によって守られているが、この防砂林の植林に着手したのは正徳3(1713)年のこと。町人の越前屋久右衛門と越後屋太郎右衛門が、後谷地に4000本の松苗を植えたのが始まりである。最初は何度も失敗を繰り返したが、植林した松苗を保護する風よけの垣根を作り替えるなど工夫を重ねてやっと成功にこぎつけた。
 こうした先人の防砂林づくりに対する情熱は、子孫や白坂新九郎、鈴木助七郎ら町人に受け継がれ、植林の面積を拡大し、80年間で30万本が植えられたという。さら藩でも植林に力を注ぎ、賀藤景林らがその任にあたった。特に景林は文政5(1822)年から、般若野を中心に77万本の松を植え、そうした功績は景林という地名と景林神社に名を残す。父の偉業を継承した景栞も、寛永6(1853)年までに能代浜に30万本の黒松を植えている。

豊富な秋田杉を活用し「木都能代」を目指す
 
 明治22(1889)年の町村制施行に伴って、能代港は能代港町となった。当時、町の発展を担ったのは木材産業で、秋田杉の利用、開発による産業振興を目指す井坂直幹が機械製材を導入し、明治40年秋田木材株式会社(秋木)を創立。秋木の創業に刺激を受けて、大小の製材工場が続々と建設されるとともに、木材加工業の発達も加わって、「木都能代」が誕生した。
 昭和15年、能代港町が東雲(しののめ)村、榊村を合併し能代市が成立。人口は3万8千人。秋田市に次いで秋田県で二番目の市の誕生である。17年に扇淵村、30年には、農工商一体の文化産業都市建設を目指し檜山、浅内、鶴形、常盤の1町3村、32年には峰浜村の一部を編入し、現在の市域となった。
 能代の木材産業は、特に第一次大戦中は好景気に湧いたが、その後は不況となり第二次大戦を迎えた。しかし戦後は、復興に伴う旺盛な木材需要から再び活気を取り戻し、昭和30年代、40年代の住宅ブームでも売り上げを伸ばした。

防災都市づくりと港湾整備を積極的に

  昭和24年、32年の大火では、市街中心部の大部分にあたる110万平方メートルを焼失。約4千世帯が焼け出され、被害総額は70億円に達した。この大火を教訓として市は、「焼けない明るいまちづくり」を目指し、防災を重視したまちづくりを推進。大規模な都市計画、土地区画整理事業を実施し、道路網の整備拡幅、緑地帯の造成、住宅街、防火帯商店街の建設などに取り組んだ。
 今日の能代港は、戦後、米代川の改修とともに整備がはじまり、昭和48年に待望の5千トン岸壁が完成し、翌49年に木材輸入港として開港。55年には1万5千トン岸壁も完成した。
 また石炭火力としては日本最大の能代火力発電所の誘致が実現したことから、56年、エネルギー港湾としての位置づけとともに重要港湾としての政令指定を受け、6万トン岸壁建設計画が決定された。
  平成13年には4万トン岸壁の擁する能代港多目的国際ターミナルが完成し、大型貨物船の入港が可能となり、それまで青森、秋田、酒田等の港に陸揚げされてから能代に陸送されていた輸入木材の直接の陸揚げによってコストの大幅な削減が期待された。

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東北電力の能代火力発電所


バスケのまちづくりで交流拡大

 能代工業高等学校バスケット部は、昭和42年埼玉国体での初優勝を皮切りに全国優勝50回以上を数える名門。インターハイ7連覇、3年連続三冠など偉業を達成し、高校男子バスケットで不滅の金字塔を打ち立てている。
 能代市では、こうした同校バスケット部の活躍を讃えるとともに、まちづくりに生かそうと平成元年、1億円ふるさと創生事業として「バスケの街づくり」事業をスタートさせた。
  これまで、市総合体育館や能代山本スポーツリゾートセンター「アリナス」などスポーツ施設の整備拡充を図る一方、児童公園等へのバスケットリングの設置を進めてきた。またこれらスポーツ施設を活用して、全国から強豪チームが集まる高校選抜バスケットボール大会・能代カップなど各種大会の開催や合宿誘致等に取り組み、バスケットのまち・能代のイメージアップと交流拡大を図っている。
 平成18年3月21日には、隣接する二ツ井町と合併し、新しい能代市として新たな歴史を踏み出す予定である。(秋田ふるさと物語の掲載原稿を一部訂正)

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高校男子バスケットボールの名門・県立能代工業高等学校

ワイドショー政治に負けた岡田民主党


国民はムードに流されやすい


 今回の総選挙は、大方の予想以上に小泉自民党が圧勝し、岡田代表率いる民主党が惨敗した。女性刺客、ホリエモン騒動など自民党が繰り広げたワイドショー政治が、国民の選挙への関心を高めるとともに、郵政民営化のみを声高に叫ぶ小泉首相への支持を広げた。1日に3時間以上テレビを見ている人の小泉支持は、テレビをあまり見ていない人に比べて極めて高いという結果が出ているという。国民の投票行動に与えるテレビの影響力は善くも悪くも大きく、国民はムードに流されやすい。
 テレビを上手く利用し、国民に考えるいとまを与えず冷静な判断力を奪いながら、これまでの数々の失政や失言などは厚いベールに包み、「改革イコール善」「改革に反対する者は悪」という単純な図式で国民の圧倒的な支持を集めた小泉自民党。かたや岡田民主党が掲げたキャッチフレーズ「日本をあきらめない」は、後ろ向きの印象が強く、国民へのアピール度は限りなくゼロに近かった。新聞掲載の全面広告「新しい政府を」もインパクトに欠け、まったく国民の心に響かなかった。あれでは民主党支持者ですら民主党に投票するのは今回は止めようと思わせるほどひどい内容だった。
 政権交代の千載一遇のチャンスなのに、ひとりよがりのキャッチフレーズ、宣伝文句にがっかりした国民が多かったのではないか。国民にアピールできないのは、民主党の国会議員も所詮は世間知らずの永田町の住人で、国民が日頃抱いている不満に関心もなければ、理解しようともしていないからではないか、との印象を多くの国民に抱かせた。
 自民党が「改革を止めるな」というなら、民主党には「我々は特権にあぐらをかかない。議員年金廃止!!」「いまの日本に独裁者はいらない!!」「官僚の横暴は許さない。天下り全面禁止!!」ぐらいはキャッチフレーズとして掲げてほしかった。
 自民党が、マドンナ候補を量産するなら、民主党も負けずと「議員年金廃止」を訴える女性候補を数多く出馬させ、国民にアピールすれば良かった。自民党がホリエモンを担ぐなら、民主党は、楽天の三木谷社長を出馬させれば良かった。毒をもって毒を制するやり方だ。あまりのバカバカしさに国民はしらけ、目を醒ますはずである。直球ばかりではなく、時には打者の打ち気をそらすような変化球も必要だ。
 岡田代表のキャラクターは、真面目で誠実なのを強調するのはいいが、面白みと親しみに欠けて、どうしても印象が暗い。真夏の街頭演説でなぜネクタイなのか。暑苦しいだけではないか。改革者のイメージとはほど遠い、官僚スタイルもいいところだ。小泉首相との違いを際立たせる作戦のつもりだろうが、すっかり裏目に出ていた。郵政民営化法案の中身には関心のない国民でも、ファッションセンスには敏感なのだから、小泉首相を見習ってオシャレなシャツ、ノーネクタイで決めてほしかった。
 今回の選挙結果のツケはけっきょく国民が負うことになるが、自民、公明両党で衆議院の3分の2以上の議席を占めるという「ほぼ一党支配」が今後4年間も続くと思うと、空恐ろしい気がする。自民党暴走への歯止め役としての公明党に期待したいが、郵政民営化関連法案に反対票を投じて自民党の公認を得られなかったものの当選を果たした無所属議員や民主党からの離党組などを加えると、将来自民党だけで3分の2以上を確保する可能性もある。
 憲法改正も具体性を帯びてきた。米英軍と一体となった自衛隊が海外の紛争地で軍事行動を繰り広げる時代もそう遠いことではないかもしれない。小泉首相の有力な後継候補のなかには、拉致問題解決で北朝鮮との戦争さえ辞さない姿勢の者もいる。超タカ派の首相が誕生し、それを郵政民営化と同じように国民が熱狂的に支持すれば、朝鮮半島で多くの日本の若者の血が流されるという最悪の事態も起こりうる。国民を欺くことがいかに簡単かということは、今回の郵政民営化問題で証明済みである。
 そうした自民党と対峙すべき民主党の国会議員のなかにも、残念なことに松下政経塾出身者を中心として国家主義的な強硬論に賛同する者もいるといわれる。自民党も民主党も一回バラバラになって、主義主張を同じくする者が再度集まった方が、国民にとっては分かりやすいと思う。ともあれ自民党に課せられた責任は重い。平和憲法を守る立場を貫く社民党や共産党も現状維持に満足しているだけでは困る。徴兵制や軍法会議の復活、国家機密法やマスコミ報道規制法が現実にならないこと、国民全員靖国神社参拝法がジョークで済まされることを、いまは願うのみである。






 
  
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2005年09月10日

東和町小学生殺害事件

犯人は顔見知りの高校生

 下校途中の中学3年生がふざけてカバンをけった同級生をナイフで刺殺(2月4日、埼玉県所沢市)、中学生ら少年グループが浮浪者を襲い殺す(2月5日、神奈川県横浜市)など少年による凶悪犯罪が続いた昭和58年。この年の4月には、岩手県中央部の東和町で、高校生が小学生を殺害するという衝撃的な事件が起きた。事件のあった東和町は、宮沢賢治を生んだ花巻市に隣接し、猿ケ石川流域を中心に豊かな穀倉地帯が広がる町。民話のふるさととして全国に知られる遠野市へも車で30分ほどの距離にある。
 この事件が発生した当時、東和町は町議会選挙の真っ最中で、桜が咲き始めた町内を拡声器で候補者の名前を連呼しながら選挙カーが走り回っていた。4月21日午後4時55分ごろ、同町南成島の県道沿いにある廃止されたバス停待合室(二畳ほどの粗末な小屋)の中で東和町立成島小学校1年の熊谷修ちゃん(6つ)が、あお向けで頭から血を流し倒れているのを、たまたま通りかかった選挙カーの候補者らが見つけ、地元の花巻署に通報。警察官が現場に駆け付けるとともに、救急車も現場に急行。修ちゃんは、救急車で県立東和病院に運ばれたが、そこで死亡が確認された。
 修ちゃんが発見された現場は町のほぼ中心部にある町役場から東へ約3・5キロの地点。昼間でもほとんど人通りのない閑散とした水田地帯の一角にあり、一番近くの民家でも約80メートル離れている。修ちゃんの自宅は現場から南へ300メートル坂道を登った所にあり、同署は当初、下校途中のひき逃げ事件として緊急配備を敷いた。
 ところが現場から約200メートル北にある猿ケ石川の矢崎橋の上に県立東和高校一年生A(15)のカバンと帽子が落ちているのを、緊急配備中の警察官が発見。カバンの持ち主であるAの行方を捜していたところ、午後7時ちょっと前、現場から約4キロ離れた東和警察官派出所近くで自転車に乗っていた、高校一年生としては大柄なAを見つけた。警察官が事情を聴くと、「ひもで首を絞めた」と犯行を自供したので、殺人の疑いで緊急逮捕した。

愛用の自転車を壊され逆上

 Aはどうして小学生を殺したのか。犯行当日の行動をたどってみよう。犯行があった21日朝、Aはいつも通り朝7時に起床し、カバンやクラブ活動で使う柔道着を持って自転車で家を出た。この時は特に変わった様子はなかったという。しかし家を出たものの、学校へは行かず、犯行現場となったバス停待合室付近を流れる猿ケ石川の水門付近でブラブラして暇をつぶしていた。家族に内緒で学校を無断欠席した後ろめたさを感じながら、時間が過ぎるのをただ待っていたのである。
 Aが学校を休んだのは、友人と自宅近くの空家に侵入したことで、事件前日の20日、先生から注意されたうえ、警察の取り調べを受けたという噂が広がり、学校に行くのが嫌になった、からだ。
 夕方近く、矢崎橋の上から、魚釣りをしている子供たちをぽんやりと眺めていると、ピカピカのランドセルを背負い下校途中の修ちゃんが通りかかった。時間は午後4時前のことである。家が同じ方向だったので、Aは高校入学祝いに親から買ってもらった新品の自転車を押しながら修ちゃんと家路につき、途中、殺害現場となったバス停待合室に立ち寄った。
 無断欠席を家族から叱責されることへの恐怖から、家がとても遠くに感じられ、すんなりと家に帰る気分ではなかったのかもしれない。Aの証言によると、犯行現場となった待合室前に自転車を置くと、修ちゃんはしきりにこの自転車に乗りたがった。それを断ると、修ちゃんは自転車をけって倒した、という。大切にしていた自慢の12段変速付ドロップハンドルのスポーツ車を倒され、そのうえランプ用発電機の泥よけを壊されたことで、Aは頭にカッと血がのぼってしまう。
 「何でやる。やめろ」
 Aは血相を変えて、怒鳴りつけた。しかし、修ちゃんは謝らず、待合室内のイスにふてくされたように横になった。これでAは逆上し、修ちゃんの頭を踏みつけたうえ、持っていた柔道着のズボンのヒモで首を絞めた。さらにグッタリした修ちゃんの首の後ろを、長さ30センチほどの"金串"様のもので5回ほど突いて"とどめ"を刺したのである。
 修ちゃんを殺害した後、Aは矢崎橋の上で出会った友人に「警察に行くのでカバンと帽子を自宅に持って行ってくれ」と頼んだが、この友人はカバンと帽子を橋の上に置いたまま帰宅し、それを緊急配備中の捜査員が発見。Aは現場周辺を自転車で走り回った後、事件を届け出ようと派出所に向かいウロウロしているところを見つかった。

マンガの残酷シーンをまねて"とどめ"を刺す

 "とどめ"を刺したことについてAは、「週刊少年ジャンプ連載の『ブラックエンジェル』のまねをした」と取り調べの中で供述。この劇画は、ふだんはおとなしく気が優しい主人公の青年が、悪人を見つけると「地獄に落ちろ」のセリフとともに愛用の自転車のスポークで首をひと突きにして殺すというストーリーだ。
 主人公の自転車はドロップハンドルのスポーツ車。この主人公にあこがれていたAが乗り回していた自転車も同じタイプ。修ちゃん殺害の凶器に使われた"金串"は、自宅の物置にあった銅鉄製の棒の先をグレンダーで鋭く研いたもので、カバンに入れて持ち歩いていた。劇画の主人公に成り切っていたのである。
 Aは祖母と両親、兄、妹の6人家族。無口でおっとりした性格で友人からからかわれることが多かったと、当時、学校関係者がマスコミの取材に答えて話していた。小学校時代に事故で頭を打ち、その後遺症で時々頭痛を患い、中学校やクラブを休むことがあったとも言われる。
 県内はもとより、全国に大きな衝撃を与えたこの事件で、盛岡家庭裁判所は同年5月30日、Aの医療少年院送致を決めた。
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2005年09月07日

国民を欺く小泉劇場

国民軽視の"失言"連発、小泉首相は即退場

 日本の歴代首相は、国会、委員会質疑等で可能な限り誠実丁寧に答弁し、決して詭弁を弄したり、答弁に窮して開き直ったりすることはなかった。それは首相に課せられた国民への説明責任であり、法律の制定や施策の推進を図る上で国民の理解を得ることが重要だからだ。内閣を構成する閣僚も立場は同じである。ちょっとした失言でも大きな問題となり、当然責任を追求された。これまで何十人、閣僚が失言問題で更迭、あるいは自らの判断で辞めていっただろうか。それだけ大臣の発言は重みを持っているということだ。
 しかし小泉内閣が発足してからは、すっかり様変わりし、その発言は風に舞う木の葉のように軽くなってしまった。失言や問題ある発言があっても、首相を筆頭にどの閣僚も責任を取らなくなってしまった。堂々と大臣のポストに居座り続けている。詭弁を弄する日本のリーダーとしては、日本を破滅へと導いた東条英機(昭和16年〜19年まで首相。敗戦後、自殺を図ったが失敗し、極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑)以来だと指摘される小泉純一郎首相。日本の将来を左右する総選挙の投票日が間近に迫る中、国民を軽視し、誠実さを欠く小泉首相の"失言""迷言"の数々を振り返ってみた。
 
●平成15年1月23日、衆議院予算委員会。民主党の菅直人代表が国債発行30兆円枠などの公約が守られなかったと追求したのに対して、小泉首相は「大したことではない」と言い放った。
●平成15年6月11日、衆議院予算委員会。共産党の志位和夫委員長との党首討論で、イラクの大量破壊兵器が未発見のままであることに対して小泉首相は「フセイン大統領はいまだに見つかっていない。見つかっていないから、イラクにフセイン大統領が存在しなかったとは言えない」と詭弁を弄してけむに巻いた。フセイン元大統領が身柄拘束された後、野党議員に「フセイン大統領は見つかったのに、どうして大量破壊兵器は見つからないのか」と追求されると、小泉首相は平然と「フセイン大統領と大量破壊兵器は違いますから」。米国のブッシュ大統領、英国のブレア首相ですら「イラクには大量破壊兵器はなかった」と認める中、小泉首相は「大量破壊兵器はある」と世界の指導者の中で最後の一人となっても言い張り続けた。もう国民はあきれるしかない。
●平成15年7月23日、衆議院予算委員会。民主党の菅代表との党首討論で、イラク復興支援特別措置法案に基づいて自衛隊を派遣するイラクの非戦闘地域について答えを求められた小泉首相は「私に聞かれたって分かるわけない」と開き直った。
●平成16年2月4日、参議院予算委員会。イラク戦争支持の大義だった大量破壊兵器の存在を追求され、小泉首相は「大量破壊兵器がないことの立証責任はイラクにあった」と強弁。ないことをどうしたら証明できるのだろうか。不思議な話である。
●平成16年6月2日、衆議院決算行政監視委員会。民主党の岡田克也代表が勤務実態のない会社での厚生年金加入問題を問い正したのに対して小泉首相は「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と不真面目に答弁し、失笑と国民の大きな怒りを買った。
●平成16年6月3日、参議院厚生労働委員会。年金制度改革関連法案をめぐる質疑で、民主党の委員が、政府案の「マクロ経済スライド」と、現行の「物価スライド」の違いを説明するよう迫ったのに対して、「私は経済の専門知識が乏しいですから」と小泉首相。この後、「これ以上、首相に答弁させるのはまずい」と考えた与党側は、質疑打ち切り動議を採決し、年金法案を強行可決。委員長席で与野党の議員が入り乱れてマイクの争奪戦を繰り広げたことを覚えている人も多いはずだ。共産党、社民党の質問を残しての採決の強行は、憲政史上初めての暴挙だった。
●平成16年11月10日、参議院国家基本政策委員会での党首討論で、民主党の岡田代表がイラク特措法で定める派兵要件の「非戦闘地域」の定義を聞いたのに対して、小泉首相は「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域だ」と答弁し、国民をあ然とさせた。

 こんな失言、不適切な発言を繰り返す首相に、日本の未来を信頼し託せるだろうか。サッカーでいえば、一発退場のレッドカードの連発だ。"郵政民営化に賛成か反対か"以前の深刻な人間性の問題である。
 
posted by thnews21 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(3) | コラム【辛口甘口】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月06日

ふるさと探訪 青森県田子町

日本一の質・量を誇るニンニク生産地

 田子町は、青森県の最南端に位置し岩手、秋田の両県に接している。十和田湖の南に広がる山々など町の面積の80%を山林が占める。アイヌ人の言葉で「小高い丘」を意味する「タプコフ」が町名の由来とされる。田子町の前身である田子村は、藩政時代を通じて南部藩領に属し、明治22(1889)年には相米村と合併し新・田子村となり、昭和3年、昭和天皇即位大典を記念して町制施行。同30年には上郷村と合併し、現在の田子町となった。
 町中心部の西南に広がる高台は、青森県三戸地方を本拠としていた戦国時代の豪族・南部氏が居を構えていた田子館があった場所である。明応年間(1492〜1500)、南部家20代信時が隠退の住まいとしたほか、26代信直も住み、天正4(1576)年にはこの館でその子の27代利直が生まれている。信直は南部藩中興の祖といわれる傑物で、戦国時代末期、三戸から軍を率いて南下し幾多の合戦の後、岩手県北、県央の覇権を手中に収めることに成功。その跡を継いだ利直は、慶長2(1597)年、盛岡での城づくり、城下町づくりに着手するなど、南部盛岡藩の礎を築き、明治維新まで続く同藩の発展につなげた。
 鹿角街道は、南部藩領の鹿角郡での金山開発を契機として17世紀初め、信直が整備に着手。盛岡城下から荒屋(八幡平市安代)、田山(同)を経て鹿角(秋田県鹿角市)に至り、さらに田子、三戸に至る道筋で、尾去沢(おさりざわ)鉱山と盛岡城下を結ぶ重要な街道であった。
 田子村には、同街道の宿駅、継場が置かれて以来、藩政時代を通じて交通の中継点としての大切な役割を担っていた。宿駅には、伝馬朱印状を携えた藩の公用物資を無償で次の宿まで輸送することが義務付けられている一方、旅客を宿泊させることや一般物資の輸送で利益を得ることが許されていた。次の宿駅までの荷物輸送を行う伝馬所には伝馬と人足が常時詰め、その伝馬所を中心として制札場、役人宿のほか、旅人の宿泊や休憩のための施設、旅人や人足、近隣住民を相手にした酒屋など商売屋が集まり田子町と称される町並みを形成し、にぎわいを増した。
 明治維新後、九戸県、八戸県、斗南県、弘前県などを経て、明治4(1871)年、青森県となった。かつては県内一の木炭生産高を誇る「林産の町」として栄えていたが、その後エネルギー事情の変化などから木炭の需要は低下。それに代わる産業として畜産に活路を求め、肉牛生産の拡大に力を注いだ。
 現在、町の基幹産業は農業で、特に豊かな自然環境を生かして生産される特産のニンニク(福地ホワイト六片種)は田子牛とともに中央市場で高い評価を受けている。このニンニクは昭和44年から栽培が本格化し、同56年には質・量ともに日本一に輝いている。7月上旬、わずか2週間の間に2千数百トンものニンニクが一斉に収穫されるという。この時期、町を訪れると、幹線道路沿いの無人販売所などで収穫したてのニンニクを格安で手に入れることができる。
 同町は日本一のニンニクを貴重な地域資源としてとらえ、ニンニクの新商品開発やニンニクにこだわった観光振興などを積極的に展開。このニンニクのまちづくりの一環として同町は、昭和63年、米国一のニンニク集積地のカルフォルニア州ギルロイ市と姉妹都市締結し、高校生の相互短期派遣などを通して交流を深めてきた。
 平成11年、豊かな自然のイメージを傷つける国内最大規模の産業廃棄物不法廃棄事件が発覚した。同町と岩手県二戸市にまたがる約27ヘクタールの原野に大量の産業廃棄物が不法投機され大問題となったが、現在、青森、岩手両県を中心とした汚染拡散防止、現状回復、環境再生などの対策が着実に進められている。
 

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平成6年に完成した情報発信基地・タプコピアンプラザ。445席のホール、町立図書館、田子町ケーブルテレビジョンなどから成る。UFOをイメージさせるユニークな外観が特徴
 
 



 

2005年09月04日

ふるさと探訪 秋田県小坂町


小坂鉱山の歴史に彩られた町


 秋田県北東部に位置し、小坂鉱山とともに発展を遂げてきた町。藩政期には南部盛岡藩の支配下に置かれ、鉱山と豊富な森林資源が藩の財政を潤した。昭和30年、旧・小坂町と七滝村が合併し、今日の小坂町が誕生。隣接する青森県十和田湖町(今年1月1日、十和田市と対等合併し新・十和田市となった)との間では十和田湖の境界線画定をめぐる協議が、明治以来、130年以上続けられているが、今日に至るもまだ解決していない。国立公園十和田湖など豊かな自然と鉱山の歴史・文化を貴重な資源として観光面の充実に力を注ぎ、同鉱山閉山後の地域活性化を図っている。
 小坂鉱山は、文久元(1861)年に発見され、南部藩の経営のもとで金や銀を採掘していた。明治維新によって官営鉱山となり、さらに明治17(1884)年には大阪の藤田組に経営が引き継がれ、国内有数の鉱山としての地位を確立した。しかし明治30年代に入ると土鉱と呼ばれる鉱石の枯渇により経営が低迷したが、黒鉱の自熔製錬という革命的な製錬法を生み出し息を吹き返し、その後は増産を続け、日露戦争後には鉱産額全国一を達成。さらに国内初の露天掘の成功も発展の大きな原動力となった。
 日本一の鉱山として名を轟かせるなか、巨費を投じたルネッサンス風の鉱山事務所が明治39年に、従業員の慰安施設として康楽館が同43年にそれぞれ完成し、全盛期を迎えた同鉱山の力を全国に示した。
 当時、小坂町には、水力発電所から送電で県内最初の電灯が灯り、上水道、電信電話、病院、学校などの施設も整っていたほか、小坂鉄道が東北初の私鉄として開業。明治末期には、町の人口が2万数千人を数え、秋田市に次ぐ県内第2の都市として活況を呈していた。
 第2次大戦後、同鉱山は社名を同和鉱業として再出発を図り、昭和34年の内の岱鉱床、同60年の温川鉱床の発見により鉱山としての命脈を保ってきたが、次第に経営規模を縮小。ついに平成2年、閉山に追い込まれ、約130年続いた鉱山の歴史に幕を下ろした。現在は、小坂製錬所として海外からの輸入鉱石を中心に金属製錬を行っているのみである。
 同鉱山とともに歩んできた小坂町は、同鉱山の全盛時代を物語る小坂鉱山事務所(国重要文化財)や日本最古の木造芝居小屋・康楽館(同)など貴重な産業近代化の歴史遺産を生かしながら、観光振興を柱としたまちづくりを推進。小坂鉱山事務所や康楽館のある通りを明治百年通りとして全国に売り出し、観光客の誘客を図りながら、鉱山で栄えた町としてのイメージアップに努めている。


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明治百年通りに移築復元された小坂鉱山事務所。内部は資料館として一般に公開されている
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日本最古の木造芝居小屋・康楽館。現役の芝居小屋として営業中