2005年08月31日

NHKの選挙報道がどうもおかしい

政府自民党寄りの選挙報道を憂う

 総選挙が30日公示されたが、NHKの選挙報道がどうもおかしい。公示日の定時ニュースでは、郵政民営化への小泉首相の熱弁を冒頭で長々と流し、郵政民営化に反対する者は国の将来を危うくする"非国民"である、という思いを多くの国民に抱かせた、衆議院解散当日記者会見での首相の必死さを再現していた。余談だが、この首相記者会見での"名演説"は、ニューヨークでの同時多発テロを受けて国際社会に対して「米国の味方になるか、テロリストの味方になるか」とシロかクロかの決断を迫った米国のブッシュ大統領の演説とそっくりだった。そしてNHKのニュースで小泉首相の次に登場し郵政民営化の必要性を強調する公明党の神崎代表。この二人を際立たせることで、国民に郵政民営化こそが最大の争点であるということをアピールしようというNHK側の意図がありありと透けてみえた。
 30日夜7時のNHKニュースは、さらに異常だった。冒頭の「党首に聞く」で最初に登場した小泉首相は、また郵政民営化についての持論を長々と語り、自由に自らの主張を展開した。年金、外交、増税などほかのテーマについてはほとんど語らなかった。首相に対するNHKの政治部記者、アナウンサーの質問は遠慮しがちで腰砕けだった。次に登場したのが民主党の岡田代表。冒頭の自由な主張時間は、小泉首相のそれに比べて10分の1ほどの短さに感じた。あっと言う間に自由時間を使い切ったところで、前出の政治部記者、アナウンサーから「小泉首相は、郵政民営化に反対する民主党についてこういっているが」「あれについてどう思うか」など、小泉首相の時の低姿勢とは打って変わって、厳しい質問を投げかけ、岡田代表を困らせる場面もあった。
 翌31日、朝7時のNHKニュースも同じでひどかった。冒頭部分でまず、小泉首相の街頭演説での郵政民営化についての主張が繰り返し放送され、その後に岡田代表の発言が続くお決まりのパターンである。郵政民営化について熱く語り、民主党が郵政民営化に反対なのは郵政関係の労働組合に遠慮しているからだ、と声高に叫ぶ小泉首相の後では、どうしても岡田代表はかすみがちだ。選挙期間中、こうしたニュースを聞かされ続けることは、小泉自民党にとって強い援軍となるだろう。今回の選挙で小泉自民党が勝つとすれば、NHKの貢献が国民の投票行動に大きく影響を及ぼした結果だ。
 NHK側の演出は、党首の演説だけにとどまらない。28日午前のフジテレビ報道2001で、自民党の武部幹事長が司会者の質問に答えてつい「2007年度に消費税を上げる」と認めてしまったことについても、ほかの新聞、テレビがそろって取り上げるなか、NHKは午後7時のニュースで流さなかった。
 30日には、首相官邸前が騒然となる事件があった。「自公連立政権阻止」のビラを積み、自ら運転する車で首相官邸に乗り込もうとして警官に阻止され、刃物で自分の体を傷付け重傷を負った長野県の主婦の一件だ。私の知る限り、この事件についてもNHKは沈黙を守った。政府に不利になるニュースは徹底的に無視するつもりだろうか。
 これではまるで政府発表のニュースしか放送できない北朝鮮の平壌(ピョンヤン)放送、戦時中の大本営発表と同じだ。フジテレビや日本テレビでさえ、もっと公平にニュースを扱っている。NHK首脳部の顔は、国民ではなく、首相官邸や自民党本部のある永田町を向いているのだろうか。質の高い番組を数多く制作し国民の期待に応えているNHKだけに、一連の世論操作的な選挙報道は残念の一言に尽きる。NHKのニュースに絶大な信頼を寄せている多くの国民のためにも、不偏不党を貫き、公平な報道を期待したい。そうすることが、国民に大きな利益をもたらすはずである。
 それにしても、今回の選挙費用は国、地方自治体あわせて約800億円と言われ、国家財政が疲弊するなかで小泉首相暴走の代償はあまりにも大きい。小泉首相は「自公連立で過半数を取れなければ退陣する」と言っているが、小泉首相のいう「郵政民営化の是非を問う国民投票」のわりには、目標が低すぎる。それを言うなら、「自公連立で衆議院の3分の2以上の議席を確保できなければ、退陣する」というのが正解だろう。そうでないと、再び参議院で郵政関連法案が否決された場合、同じように廃案になってしまうからだ。選挙結果にかかわらず、参議院で再度否決される可能性は高い。参議院で否決、それならまた衆議院を解散。小泉首相の精神構造ならやりかねない。


 
 
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2005年08月27日

岩手の事件簿 種市一家5人惨殺事件


岩手・青森県境の港町が惨劇の舞台に



逃げまどう子供にも狂気の刃


 岩手県種市町は青森県境に近い太平洋沿岸の町。静かな盆入りの朝を迎えるはずのこの町で、血も凍るような惨劇が起きた。ぐっすり寝ていた妻と4人の子供たちに狂気の刃を降りおろす父親。逃げまどう幼い子供にも容赦なく襲いかかった。室内には血が飛び散り、5人の遺体がむごたらしく放置された。血染めの布団と異臭に、通報で駆けつけたベテラン捜査員ですら顔をそむけ、言葉を失った。
 事件が発覚したのは、凶行に及んだ父親からの電話だった。平成元年8月13日午前5時20分ごろ、九戸郡種市町第23地割39、無職・加●(門のなかに亀)山秀武=かくちやま・ひでたけ=(42)が自宅近くの公衆電話から「自宅で妻と子供を殺した」と110番した。久慈署員が現場に急行し5人の惨殺死体を発見、公衆電話ボックスにいた憔悴し切った加●山を逮捕した。
 惨劇の舞台となった加●山宅は、JR八戸線種市駅から約200メートル西側の住宅地の一角。殺されたのは、妻静子さん(37)、長女寿子さん(14)=町立種市中3年、長男武士(たけし)君(13)=同中1年、2男猛(たける)君(11)=町立種市小5年、3男真也ちゃん(6つ)=町立種市保属園=の妻子5人。静子さんと真也ちゃんは奥の8畳寝室の布団の上で頭を並べ、布団を半分かけられた状態で死んでいた。隣室の8畳間では、寿子さんら3人の子供が布団の上などで血まみれになって倒れ、静子さんのそばには血の付いた刃渡り約15センチの漁業用ナイフ(通称・マキリ)が布をかけられ落ちていた。


子育て上手の働き者の妻


 加●山は種市中を卒業後、土木作業員や漁船員をしていたが定職には就かなかった。加●山と静子さんは結婚後間もない昭和49年5月、凶行の現場となった家に移り住んだ。出稼ぎや漁船員として働く夫は留守がちで、子供の世話は静子さんが一手に担い、しかも不安定な夫の収入を内職などで補い家計を支えていた。洋服の内職をして注文を取り、婦人服やセーラー服を仕立てる働き者の奥さんとして近所でも評判だったという。平成元年7月半ば、イカ釣り漁から帰った後、加●山は体調を崩し自宅でぶらぶらしていたが、そのかたわらで静子さんは、内職の納期になんとか間にあわせようと、汗を流しながら懸命にミシンを踏み続けていた。
 生活は苦しかったが、子供たちはすくすくと育っていた。種市中3年の長女寿子さんは来春の高校進学を控え、夏休み前に母の静子さんと担任教師を交えた三者面談をしたばかり。「できれば八戸の普通高校に行きたい」と意欲を見せ、夏休み明けの実力テストを目標に頑張っていた。長男武士君はバスケットボール部の練習が大好きな活発な中学生。種市小5年の2男猛君は、理科が得意で草花が好きな気持ちの優しい子供で、友達からは昆虫博士と呼ばれていた。三男の真也ちゃんは今春種市保育園に入ったばかりで、9月の運動会を楽しみにしていた。


生活苦から口論、離婚話に逆上


 小さな借家に暮らす加●山一家6人は、子ぼんのうな父、働き者の母、それに健やかに育つ子供たちにも恵まれ、近所の人の目には円満な家庭に映っていたのだが・・・。
 だが内実は違った。生活苦から夫婦の間での口論が絶えず、離婚話も取り沙汰されていた。静子さんが真也ちゃんを連れて1カ月ほど八戸の実家に帰ったこともあった。静子さんが離婚を決意したのは、船員だった加●山が無断で船を降りたうえ、定職にもつかず、そんな生活態度を注意すると、暴力を振るわれることがしばしばあったからだ。
 虚勢を張っていても小心者の加●山にとって、静子さんが子供4人を連れて八戸市の実家に帰るのではないか、という不安が頭から離れなかった。
 犯行の前夜、加●山はいつものように自宅でウイスキーを飲み出した。妻の静子さんは、稼ぎもないのに酒ばかりのんでいる夫にいい顔はしない。静子さんが離婚の話を切り出すると、激しい口論となった。夫との口けんかに嫌気がさした静子さんは口論の途中で、寝室に引きあげてしまった。一人残された加●山は面白くない。それからもウイスキーを飲み続け、そのままふて寝した。9日未明、目を覚まして床に入ろうとしたら、自分のひじと隣の布団に寝ている静子さんのひじが当たるなど険悪な態度を取られたことに逆上、さらに日本酒7合(約1・26リットル)をラッパ飲みした。
 「自分一人だけが残されるなら、みんなを道連れにして死んでやる」
 酒をあおりブレーキの利かなくなった暴力的な感情は、坂を転げ落ちるように暴走を始めた。これまで自分を支えてきた妻のこと、可愛い子供たちの将来のことなどを冷静に考えられる冷静さはすでに失われていた。
 午前5時ごろ、鬼のような形相をした加●山の手にはマキリと呼ばれる鋭い漁業用ナイフが握られていた。
 静子さんと4人の子供とものどに切りつけ殺害。血ふ造きがふすま、天井まで飛び散った。瞬く間に布団は血の海に。静子さんはともかく、4人の子供は何も知らずにぐっすり寝ていたところを、非情にも襲われた。殺害された5人には抵抗した形跡はなかった。ただ2男猛君の首に切りつけた際、目を覚まし逃げ出そうとした長男武士君に背後から切りつけ再び頚部を刺した。必死で逃げ回った猛君の血が台所や居間の床などに付着していた。


死刑判決の加●山、上告中に病死


 加●山は犯行後、自宅にカギをかけ、遺体を放置したまま、近くの山林などをあてもなくさまよった。首をつるなど自殺しようとしたが死に切れなくて、4日後に自首した。
 殺人罪に問われた加●山被告の判決公判は、2年11月15日に盛岡地裁で行われた。守屋克彦裁判長は犯行当時の加●山被告の精神状態について「心神耗弱状態とはいえず、責任能力は問える」と弁護側の反論を退け「犯行は凶悪残忍なもので動機に同情の余地はない」と断罪する一方で、「犯行は被告が自殺を考えた上での無理心中であり、反社会性の強い強盗殺人などとは類型を異にする。自首しており、深く反省している」と情状理由を述べ、死刑の求刑に対し、無期懲役を言い渡した。
 しかし平成4年6月4日、仙台高裁で行われた控訴審判決では、渡辺達夫裁判長が「被告人に尽くして明るい家庭を築こうとしながら理不尽に殺された妻・静子さんの心情はあまりに不びん。瞬時に一命を奪われた子供たちの無念さは察するに余りある」などと断じて、一審判決を破棄し、求刑通り死刑を宣告した。
 加●山はただちに最高裁に上告したが、同年10月6日に体調を崩し、入院先の仙台市の国立仙台病院で同月16日午後、自分が手にかけて死なせた妻や4人の子の後を追うように静かに息を引きとった。死因はくも膜下出血。自分が犯した罪の深さを悔やまない日はなかった。妻子5人殺害から3年3カ月、加●山の心には、家族との楽しかった思い出、妻の顔、子どもたちの顔が、走馬燈のように一つまた一つと浮かんでは消えていった。

 
 
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2005年08月26日

秋田酒ものがたり(上)


うまい酒づくりに賭けた熱意と情熱


全国有数の清酒王国・秋田


 秋田県は清酒の醸造に適した気候風土とうまい酒づくりに欠くことのできない良質な米と清冽な水に恵まれ、藩政時代から酒造業が盛んに行われてきた。最盛期には、県内に造り酒屋が159軒あり、現在でも51の蔵元が酒造りの技と心を受け継ぎながら酒造りに励んでいる。全国有数の銘醸地として、いまでこそ、「酒造王国」としての地位を揺るぎないものしているが、ここに至るまでには数多くの先人の苦闘など物語があった。
 全国3位の米どころである秋田県は、清酒の出荷量で全国生産高の約半分を占める兵庫、京都の2府県に大きく水をあけられているが新潟に次いで全国4位、成人ひとりあたりの清酒消費量は新潟県に続く2位と、酒造と消費の両面で全国有数の清酒王国となっている。しかも県内で消費される清酒のほとんどが秋田産であることがほかの地域にはない大きな特徴で、これは、秋田の酒に強い愛着と誇りを感じている県民性のあらわれであると同時に、県内酒造業界が灘、伏見など代表的な醸造地を含む県外からの清酒搬入に消極的な姿勢を貫き、県内清酒の消費拡大と県内蔵元の育成に努めた結果だともいわれる。

 

先進地・灘から三人の杜氏


 秋田佐竹藩は、早くから酒造を藩の重要な産業と位置づけ、評価の高い秋田米を原料とする清酒を、船便で江戸など中央に出荷することを計画。これにより藩の財政を豊かにしたいと考えていた。酒づくりに欠かせないのが、酒造りの専門技術者集団である蔵人をまとめる杜氏(とうじ)の存在である。
 播州(兵庫県)明石から三人の杜氏が、秋田藩に招かれたのは文化4(1807)年のこと。藩主佐竹義和の命により同年、城下町久保田(現在の秋田市)に開設された酒造方御試所(今日の醸造試験場のようなもの)で、三人の杜氏は酒造先進地の灘の酒づくりの技を秋田に伝え普及させ、藩内の酒造業の発展と酒質の向上を図るという大切な役割を担っていた。
 翌文化5年、灘の技法を取り入れたうまい秋田の酒がつくられたが、不運なことにその酒を運ぶ船が千葉沖で難破。江戸に着いたのは一部の酒だけだったが、三人の杜氏が心血を注いだ酒の出来は極めて良好で好評を博し、高値で取り引きされた。
 佐竹秋田藩では、この酒の増産準備を進めていたが、同年、三人の杜氏のうち主要な二人を相次いで病気で失うという予想外の出来事に見舞われた。一人残った杜氏や、新たに播州から招いた杜氏が酒造りにあたったが、寒地造りの経験不足などから、仕上がった酒は満足のゆく出来からはほど遠かった。このアクシデントをきっかけとして、秋田の酒づくりは先の見えない長いトンネルに入ってしまった。
(つづく)

  

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創業は今から約310年前という五城目町の蔵元・福禄壽。
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2005年08月23日

ふるさと探訪 岩手県石鳥谷町


いまに生きる 南部杜氏の技と心


 岩手県のほぼ中央に位置し、町の中央を北上川が流れる石鳥谷町。国道4号や東北自動車道、東北本線、それに東北新幹線が南北に貫く交通の要所にあるが、古くから人と物資の往来でにぎわったその歴史は好地旧一谷塚、江曽一谷塚などの史跡が物語っている。
 同町は、縄文時代の遺跡が数多く発掘されるなど古くから人々の豊かな営みがあった。前九年の役などの変遷を経て、12世紀の終りには稗貫氏の所領となる。豊臣秀吉の天下統一後、没落した稗貫氏にかわって南部氏が統治し、その支配は明治維新まで続いた。昭和3(1928)年、この地方の中心である好地村は町制をしいて石鳥谷町と改称。30年には、旧石鳥谷町、八幡村、八重畑村、新堀村の1町3村が合併して現在の石鳥谷町が誕生した。
 豊かな歴史と文化が息づく町内には、稗貫氏の菩薩寺でミズバショウが美しい大興寺、稗貫氏に関する重要文書等が保存されている光谷寺、樹齢350年の桜で知られる長善寺、弘法大師の置き忘れた杖が根づき大木になったという伝説が残る「逆ひば」などがある。
 また奥羽山脈を源とする葛丸川渓流は滝、奇岩などが多く、四季を通して美しい景観を見せている。2月14日には「たろし滝」の氷柱の太さをはかり、その年の米の出来、不出来を占う伝統行事が行われる。
 丹波、越後とともに日本三大杜氏に数えられる南部杜氏。その発祥の地として有名な石鳥谷は、良質な米と水に恵まれ、古くから酒造りが盛んだった。藩政時代には、石鳥谷の杜氏が「酒司(さかじこ)」と呼ばれる藩庁公認の杜氏に選ばれ、その酒は南部藩主のご膳酒として盛岡に運ばれた。現在も、その伝統の技と心を受け継いだ杜氏たちが、県内はもとより、北海道から四国まで全国各地、約400軒の酒蔵で活躍している。
 町では、全国的にも珍しい酒文化を生かしたまちづくりを推進しており、その中心となっているのが国道4号沿いにある「南部杜氏の里公園」(道の駅「石鳥谷」)は、国指定重要有形文化財の酒造用具1788点などを展示した歴史民俗資料館、南部杜氏の技と心を紹介する南部杜氏伝承館など、日本の酒造の歴史と文化を知る上で貴重な施設からなり、年間15万人以上が訪れている。
 平成18年1月1日には、花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町の1市3町の合併により発足する新・花巻市(人口10万6300人)の一員として新たな歴史を踏み出す。
 

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国道4号沿いの「南部杜氏の里公園」(道の駅「石鳥谷」) 

2005年08月21日

岩手の事件簿 見前村のおヨネ夫殺し事件


流行唄にもなった明治の不倫殺人



闇夜を切り裂く女の悲鳴


 明治の末期、若い美貌の人妻が年下の愛人と共謀し、律儀で働き者と評判の夫を殺すという衝撃的な事件が起きた。テレビのワイドショーや週刊誌のない時代にあって、この「おヨネ庄吉夫殺し事件」はセンセーショナルな不倫殺人として社会の関心を集め、当時流行唄にまでなった。
 明治天皇の崩御からまだ日が浅い大正元(1912)年9月3日午前1時半ころ、紫波郡見前村大字三本柳(現在の盛岡市三本柳)の飲食店兼魚行商の吉田三治郎(当時34)方から聞こえてくる
 「大変だ。早く来てけれ」
 という女のか細い悲鳴に、隣家の住人はとび起き、すかさず同家に駆けつけた。
 暗がりの中、マッチの明かりをたよりに勝手の戸を開けると、中には男が血まみれで横たわり息絶えていた。事の重大さに気付いた住人は、大声で近所の人達を呼び集め、恐る恐る室内に足を踏み入れた。死んでいた男は主人の三治郎で、さらに勝手につながる奥の座敷には、裸のまま手足を縛られ猿ぐつわをされた妻のヨネ(当時24)が蚊帳にくるまり布団に横たわっていた。
 三治郎の布団にはおびただしい血が流れ、ランプや戸棚にまで血ふぶきが飛び散り、その惨状は目を覆うばかり。鋭利な刃物でのどを切られた三治郎は勝手まで逃げたものの、そこで力尽きて絶命したらしい。
「寝ていたら、覆面をした強盗に襲われた」
 というヨネの話を裏付けるように、タンスの中が荒らされていたのだが・・・。

冷え切った夫婦関係

 殺害現場は国道に面した飲食店兼住宅。主人の三治郎は主に魚の行商に従事し、妻のヨネは家に居て飲食物や雑貨、たばこなどを販売。夏になると、店先に氷水の屋台を出し繁盛していた。美しく男好きのするヨネを目当てに足しげく店に通う男も多かったらしい。
 犠牲となった三治郎は、7年前に父親が亡くなった後、弟妹の面倒を見ながら盛岡市内で生活していたが、思うように生活ができなくなり、やむなく一家は離散。三治郎は八戸地方にある酒造業の下働きの出稼ぎに行き、そこで無我夢中で働き小金を貯め、それから見前村三本柳に住む叔母をたよって現在地に移り住んだ。持ち前の律儀な性格で、家業である魚の行商に精進し、多少の蓄財もあったようだ。また青年団員として地域の信望も篤く、5年前には三本柳の叔母の娘であるヨネと結婚したが、子供はいなかった。
 ヨネは、15歳で他家に嫁いだが離婚し、18歳の時いとこである三治郎の妻となった。家業は順調でなに不自由のない生活のように見えたが、夫婦の間にはいざこざが絶えなかった。村でも評判の美人だったヨネは結婚後も村の若者との関係がたびたび噂になり、三治郎が再三注意したにもかかわらず行動はいっこうに収まらず、むしろ火に油を注ぐ形でエスカレート。また三治郎が妻ヨネを虐待していたという話もあり、そんなことで最近は夫婦の仲は決定的に悪化し、離婚沙汰にまで発展していく。
 
妻を縛って夫を殺す

 事件前日の2日、その日の行商を終え夕方帰宅した三治郎は、それが最後の晩酌になるとも知らず、売上金を勘定しながら妻を相手に2、3本の酒を飲み、夕食を食べていた。いつになく愛想よくヨネが酌をしてくれるので、三治郎は上機嫌だった。行商の疲れにアルコールの酔いも手伝って、三治郎はほどなく床に入った。寝息を立て熟睡する三治郎の横で、ヨネはまんじりともしないで床についていた。
 その時、外には雨戸に身を張りつけて室内の様子をうかがう一人の男がいた。ヨネと共謀し三治郎殺しを画策した紫波郡大字西見前の農業長澤庄吉(当時21)で、短刀をヨネに渡したのもこの男である。
 二人が床に入ってからどこくらい時間が過ぎたのだろうか。闇に包まれた静寂の中で、おヨネの胸には夫として苦楽を共にしてきた三治郎を殺すのはしのびないという思いがこみ上げていた。「何事もなくこのまま夜が明けてくれれば」と思っていたかも知れない。
 しかしそれを許さなかったのは、今や遅しとヨネの決行を待つ庄吉の存在である。ためらっていたヨネは心を鬼にして、敷ふとんの下に隠していた短刀を取り出すと、庄吉から教えられた方法通りに、刃先を外側に向け、これを逆手に握り、三治郎の背後側面より咽喉部に一刀を加え、気管支と左右頚動脈を切断。その瞬間、血吹雪があたり一面に飛び散った。
 庄吉は、この時を今かいまかと、雨戸の外で息を殺して待っていたのだ。三治郎はもがき苦しみながら勝手の上がり段まで這い出したものの力尽きた。出血多量で即死状態だった。
 すぐさま庄吉は室内に入り、強盗を装いタンスの中を荒らし、ヨネを手際よく縛り上げた。そして、声をあげて隣家に助けを求めるようヨネに指図。その悲鳴を聞きつけて隣家の住人が同家の勝手口に立った時には、すでに庄吉は立ち去った後だった。

凶器の短刀発見が決め手に

 ヨネと庄吉とは1年ほど前から愛人関係にあり、将来夫婦になることを約束し、誓約書までかわしていた。夫が地方への行商で留守がちなことをいいことに、二人は盛岡市内の旅館などで逢瀬を楽しんでいる。
 この年の4月には、夫が不在中の留守宅で密会していたところを、予定より早く帰宅した三治郎に見つかり、厳しく問い詰められたということもあった。二人が新しい生活を始めるためには三治郎の存在は邪魔だったし、三治郎に掛けられた生命保険も魅力的に映ったかも知れない。
 二人は共謀し、最初毒殺することを計画し毒草を採取したが、その計画は頓挫。その後庄吉は盛岡市内で短刀を買い求めヨネに渡し寝ている間に刺し殺すことを指示した。当初8月26日に殺害を計画、庄吉は屋外で"その時"を待ったが、ヨネは連れ添った夫を殺すのがしのびなく犯行を躊躇し、その日は何事もなく夜が明けた。
 「短刀に錆があるので、殺せなかった」
 とヨネは庄吉に苦し紛れの言い訳をした。
 事件の捜査は「覆面をした強盗に襲われた」というヨネの証言にもかかわらず、金品が盗まれていないことから、怨恨か痴情によるものと見られた。しかし三治郎には他人から恨みを買うようなことがなく、そこで痴情関係に捜査は絞られていく。
 またヨネの証言には辻褄の合わないことも多く、そこでヨネの身辺を洗うと庄吉と愛人関係にあって夫婦の間も冷え切っていたことが判明。同家前の小川からは凶行に使われた短刀が発見され、さらに庄吉にこの短刀を売った店員の証言も得られた。ヨネは素直に犯行を自供したが、一方の庄吉は
 「短刀を買って渡したこと、犯行が行われた時に戸外にいたこと、強盗を装ったことは認めるが、殺害をおヨネと共謀したこともなければ、殺害の方法を教えたこともない」
 と最後まで言い逃れを続けた。
 世間の注目を集めたこの事件は、大正元年10月14日、傍聴席に入り切らないほど大勢の人が詰め掛ける中、盛岡地方裁判所でヨネ、庄吉に死刑という判決が言い渡された。二人は判決後、宮城控訴院に控訴したが棄却となり、さらに大審院に上告したものの、それも棄却となって、死刑が確定。大正2年12月25日死刑が執行された。

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